映画評「カリガリ博士」

 原題「DAS CABINET DES DR.CALIGARI」 英語題「THE CABINET OF DR.CALIGARI」 製作国ドイツ
 デクラ=ビオスコープ AG

 「カリガリ博士」は、その後に作られた多くの映画を見てきた私たちにとっては、異様な作品である。その最大の理由は見た目にある。極端にデフォルメされた建物やインテリアは、実用性などまったく考慮に入れられていない。その異様な見た目は不安定感を映画に与え、サイコスリラー的なストーリーと絶妙に絡み合い、映画は一種異様な作品へと昇華している。私が初めて見たときのビデオでは、挿入される字幕もカクカクしており、異様な世界の形成の一助となっていた。

 この手法を用いた作品は「ドイツ表現主義」と言われる。「カリガリ博士」はその筆頭であり、最高峰と言われる。というよりも、他の作品はあまり有名ではなく、気軽には見られない。少なくとも日本では。(小松弘氏によると、「朝から夜中まで」(1921年)、「ゲニーネ」(1922年)「月の家」(1923年)「トルブス」(不明)「罪と罰」(1925年)「裏町の怪老窟」(1925年)と「カリガリ博士」の7本が「ドイツ表現主義」映画に当たるという)

 ストーリーは、今見てとても優れているというほどのものではないように思われる。1人の興行師が、夢遊病者を使って殺人を繰り返す。興行師は実は精神病院の院長で、自らの欲望を充たすために夢遊病者を操っていたのだった・・・というのは全部1人の精神病患者の妄想だったというもの。ストーリーは確かに、すでに指摘されているように、後のヒットラードイツ国民の関係を思い起こさせるものがあるものの、それは結果論のようにも感じられる。

 やはり、「カリガリ博士」はストーリーそのものよりも、ストーリーとセット、そして演出の融合にその魅力があるように思える。演出は、過度に表現主義的な非現実的なものではない。基本的にはカメラを据えっぱなしにして舞台を撮影するような視点で撮影されている。だが、奇抜ではない演出は、時折冴えを見せる。夢遊病者のチェザーレが目覚めるシーンでは、ゆっくりと目を見開くチェザーレをクロース・アップでじっくりと捉え、画面を見るものを見つめるように撮られ、不気味さを映画に付け加えている(目を開けるまでの間が長さが絶妙だ)。チェザーレが殺人を犯すシーンでは影だけでその様子を映し出す。チェザーレの巨大な影は邪悪さを象徴しているようだ。

 現実とはなれた演出を見せるのは1箇所だけだ。それは、院長が発狂してカリガリ博士へと変貌するシーンで、画面には二重露出で「CALIGARI」の文字がネオンのようにカリガリをさいなむ。発狂が「世界が様相を変える」という意味もあると考えると、この演出は適切すぎるほど適切といえるだろう。

 「カリガリ博士」のラストは当初の予定から変更されている。当初は、最初と最後のシークエンスはなかったのだという。つまり、カリガリ博士の物語は精神病者の妄想ではなかったということだ。となると、映画は「表現主義」だけで成り立つ映画となり、この世ではないどこか別の架空の世界の物語という作品となっていたことだろう。この変更によって、「カリガリ博士」の反権威主義的な色合いが薄くなったとも言われる。しかし、私はあまりそう思わない。それは、最初と最後のシークエンスが挿入されることで、映画は現実との境い目を薄くすることに成功しているように思えるからだ。

 最後のシークエンスの舞台となる精神病院は、精神病患者の妄想として描かれる精神病院と同じである。これは、おそらくは単にセットを使いまわしただけなのであろうが、私には妄想と現実をつなぎとめる楔(くさび)のようにも感じられた。精神病院が同じことにより、映画はより多様な解釈ができるように思える。例えば、病院の院長は、その巨大な権力を武器にして、精神病患者として男を収容したようにも思える。ラストで、院長が「患者の治療法がわかった」と言っている。この物語上の必然性がまったくないセリフは、もしかしたらチェザーレのように男を利用する方法を見つけたと言っているのかもしれない。

 この解釈を押し進めると、映画は最初と最後のシークエンスを挿入したことにより、権力の恐ろしさを強烈に刻み込んでいることになる。ラストで登場する精神病院が、もっと現実的な造形の精神病院であったならば、このような解釈は不可能であったことだろう。

 しかし何よりも、「カリガリ博士」は、表現主義的な手法による不気味さがストーリーと見事に結びついていることが、今でもそしてこれからも生き続ける理由なのであろう。考えるよりも、感じることができる映画として。


 「カリガリ博士」の監督は、最初にフリッツ・ラングに打診があったという。ラングは他の作品に関わっていたために結局は辞退したが、冒頭とラストのシークエンスを追加することをアドバイスしたのだという。映画に込められた反権力のメッセージが、冒頭とラストのシークエンスの追加によって強くなっているように感じられた自分としては、当初の予定にはなかったシークエンスの追加に、どこか映画の神様の存在を感じる(ラングは反権力のメッセージを弱めて、受け入れられやすくするために提案していたということを考えるとなおさら)。

 ちなみに、「カリガリ博士」は「ドイツ表現主義」の代表作と言われるが、「表現主義」自体は決して新しい考え方ではない。舞台ではすでに実践されており(「カリガリ博士」のセットは非常に舞台的だ)、映画に表現主義を取り入れた作品とみなす必要がある。「カリガリ博士」にはカラーバージョンがあるらしい。これが、当時彩色されたバージョンなのか、後年カラーに直したバージョンなのかが分からないが、色の面でも表現主義が感じられるという。一度見てみたい。

 また、「カリガリ博士」は、世界最初の本格的長篇ホラー映画と言われる。何が「本格的」で、どこからが「長篇」なのかという議論はさておき、「カリガリ博士」を「ホラー映画」として見ると、失望を覚える可能性がある。確かに、「カリガリ博士」には全編に渡って不気味さが漲っているが、「恐怖」を見るものに感じさせる工夫に凝らされた映画ではない。「カリガリ博士」の評の中に時折「怖くない」というものを見るが、「カリガリ博士」はそういう映画ではないと思う。その意味で「本格的」「長篇」は置いておいても、「ホラー映画」として強調されるのは、「カリガリ博士」にとっても、見る者にとっても不幸なことのように思える。

 IMBdで「カリガリ博士」について見ていると目に付く名前がある。ティム・バートンがそれだ。特に、「ナイトメア・ビフォア・クリスマス」(1993)への影響について触れられているケースが多い。また、「バットマン」(1989)でダニー・デビートが演じたペンギンと、「カリガリ博士」のカリガリ博士の造形の類似への指摘もあった。なるほど、バートンの映画には「カリガリ博士」を思わせる表現主義的なこだわりを感じさせる作品が多々ある。ちなみに、バートンは「カリガリ博士」のリメイクも検討していたことがあるという。

 リメイクといえば、「カリガリ博士」には原題が同名の作品がある。「怪人カリガリ博士」(1961)がそれだ。全洋画ONLINEの紹介文によると、「自動車の故障により、謎の人物カリガリが住むとある屋敷を訪れた一人の女性、ジェーンが体験する恐怖と幻想の世界を描いたサイコ・ホラー」ということだ。リメイクではないようだ。

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