コメディの変容 レイモンド・グリフィス、W・C・フィールズ・・・

 コメディの分野では、チャールズ・チャップリンバスター・キートンハロルド・ロイド、ハリー・ラングドンといったコメディアンが活躍する映画が変わらず作られていた一方で、この頃になると「無花果の葉」(1926)のように、監督が主導で作られた作品も増えてきていた。他にも、社交界紳士風のスタイルでアクションも見せるレイモンド・グリフィスが活躍を見せていたし、サラリーマン・スタイルでスラップスティック・コメディとルビッチ的な風俗喜劇の中間をゆくレジナルド・デニーのような人物も現れていた。ちなみにデニーは、「スキナーの夜会服」(1926)に主演している。

 映画の長編化により、アクション・ギャグは分散的になり、クライマックスに集中されるようになった。中盤まではドタバタ的動きよりもアイデアで笑わせるタイプの作品が多くなっていた。こうした傾向がレイモンド・グリフィスのようなコメディアンを成長させたと言われる。

 グリフィスは、パラマウントと契約して、1922年から主演作品を発表していた。アクションも多かったが、機知たっぷりのギャグがおもしろく、ソフィスティケートされていたといわれる。

 グリフィス主演の「南北珍雄腕比べ」(1926)は南北戦争を背景に、北軍が西部の金鉱から軍資金を得ていることを知った南軍が、グリフィスをスパイに派遣するという内容の作品である。南北戦争中の西部なのに、グリフィスは上流階級スタイルで登場する。銃殺されそうになったとき、皿を空に投げると兵隊たちがうっかり皿を撃ってしまい、その隙に逃げるといったギャグや、戦い踊りを始めたインディアンに別の踊りを教えるなどのギャグがあったという。

 サイレント期に活躍したグリフィスだが、声がよくなかったため、トーキーになってから活躍できなかったと言われる。

 トーキーになってからも活躍していくコメディアンに、W・C・フィールズがいる。フィールズは曲芸師として世界的に有名だったが、1924年から映画に本格進出した。その後、パラマウントの「チョビ髯大将」(1926)を始めとする作品で、曲芸師らしい軽妙なパントマイムやのんびり悠然とした笑いを武器に、人気を得ていく。ちなみに、日本語名は「チョビ髯」がつくものが多かったが、トーキーになってからはカボチャと言われた。フィールズの駄洒落や警句は、後にトーキーになって、より生かされるようになる

 コメディがアイデア重視に変更されていく中、スラップスティックの伝統を継承していくコンビが誕生している。コメディ専門で映画を製作し、ハロルド・ロイドの産みの親とも言えるハル・ローチが、後に「極楽コンビ」と呼ばれて日本でも親しまれる「ローレル&ハーディ」のコンビがそれである。スタン・ローレルとオリヴァー・ハーディによる2人のコンビの作品には、後の巨匠レオ・マッケリーも関わっていくことになる。