2012-06-01から1ヶ月間の記事一覧

 中国 シーチュアンとチョンチュウによる映画製作

中国では、1922年にチャン・シーチュアンとチョン・チョンチュウによる映画会社「明星影片公司」が上海に成立し、映画製作を行っている。 1923年には、チョンの主張で、チャン監督、チョン脚本による「孤児救祖記」(1923)が製作されている。善…

 スペインとフィンランドの映画製作 1923年

それまでバルセロナとマドリードが映画製作の中心地だったスペインでは、バレンシアも映画製作の中心に加わってきた。バレンシアでの映画製作の中心は、グランデス・プロドゥクシオネス・シネマトグラフィカス・エスパニョーラス社で、サルスエラ(スペインの…

 スウェーデン 気を吐くスティルレルと米国に渡るシェーストレーム

衰退を続けていたスウェーデンだったが、モーリッツ・スティルレルが「グナー・ヘーデ物語」(1923)を監督して気を吐いている。没落した旧家の最後の相続人が、サーカスの女芸人に恋をして、すべてを売って恋を得ようとするが、失敗。発狂した身をソリ…

 イタリア映画 止まらない衰退 製作本数が3年前の10分の1に

イタリア映画の衰退は止まらなかった。1920年には220本を記録していた製作本数は、1923年には20〜30本と約10分の1にまで減少していた。 1910年年代に大作史劇を監督して活躍したエンリコ・グアッツォーニは、「メッサリーナ」(192…

 イギリス映画草創期からの映画人 セシル・ヘップワース

イギリス映画の草創期から活躍を続けていたセシル・ヘップワースは、自作のリメイクでもある「ライ麦畑からやってくる」(1923)を監督している。主演男優が病気で撮影が遅れるも、ブリティッシュ・フィルム週間に出品するために、未完成の部分があるまま…

 イギリス 不振と若い映画人の芽生え

イギリスの映画製作は不振を続けており、1923年にイギリスで公開された作品のうち、イギリス映画は18%に過ぎなかった。だが、若い才能は徐々に活躍を始めていた。 1922年に独立プロを設立したマイケル・バルコンは、フランス娘とイギリス仕官のメ…

 ソ連 エイゼンシュテイン初の映画製作

前年から本格的に映画に関わり始めていたセルゲイ・エイゼンシュテインは、初の監督作である「グルーモフの日記」(1923)を製作している。といっても、舞台に挿入した映像作品で、短編のコメディだった。 この頃のエイゼンシュテインは、レフ・クレショ…

 ソ連 フィルム不足の中の映画製作

ソ連では、フィルム不足から制作される映画が減少し、1919年の約60本から1923年には約20本に減少していた。 初期ソ連映画の重要人物と言われるウラジミール・ガルジンは、架空の国の皇帝のドラマである「亡霊がヨーロッパをさまよう」(1923…