その他の開発者たち(3)

 映画機械を開発した人々の中で、最も興味深い人物がオーギュスタン・ル・プランスだ。なぜ、興味深いかというと、機械の開発を目前にして、彼は消息不明になっているからだ。

 この人物については、「エジソンに消された男 映画発明史の謎を追って」(クリストファー・ローレンス著 鈴木圭介訳 筑摩書房)という本が出ている。ル・プランスのアイデアエジソンが盗んだことを隠蔽するために、ル・プランスを誘拐したと考え、エジソンと戦おうとする家族の奮闘ぶり。後にそんなル・プランスとその家族について知り、調査する著者のドキュメントが絶妙に絡み合う。そこに機械の発明に絡んだ当時の状況についての説明も重なってきて、勉強にもなる。特に、後にエジソンを中心にして勃発する特許戦争についての詳しい記述は、日本語で読める本の数が少ないため貴重だ。アマゾンなどで古本を買えるので、興味のある方は読んで損はないと思う。

 ル・プランスの開発した機械は、確かに撮影・上映が出来たように思われるが、不完全であったようだ。その理由の1つにフィルムがあるらしい。セルロイドのフィルムが手に入らずに困っていたようだ。才能があっても無名の発明家の悲しさというべきか。

エジソンに消された男―映画発明史の謎を追って 


 イタリアでも、映画機械の開発を行っていた人物がいる。その名前は、フィロテオ・アルベリーニという。

 1895年11月に、撮影・現像・映写機である「キネマトグラフォ・アルベリーニ」の特許が認可されている。「シネマトグラフ」に遅れること9ヶ月のことだった。

 当時のイタリアは産業的に遅れており、「キネマトグラフォ」を大量生産するという考えは生まれなかったという。

 またドイツでも、マックスとエミールのスクラダノフスキー兄弟が、開発を行っていた。開発の中心はマックスで、1892年には独特の映写機を作り上げていたという。機構的には、キネトスコープに使われたイーストマンのフィルムと、エジソンが考案したパーフォレーションを使って、2台の映写機をセットして、2つのレンズの前に半月刑のシャッターがつき、2つの映像をスクリーンに同時に映し出すというものだったと言われている。映写速度は1秒48コマだった。彼らは、ベルリン市外パンコウに撮影用スタジオを建て、数本の作品を撮影したという。

 1895年12月1日に「ビオスコープ」による動く写真を公開したと言われている。上映は、ベルリンのウィンターガーデンで行われ、ヴァリエテの幕間に上映されたという。プログラムは「イタリア農民の踊り」「カンガルーの拳闘」「手品」「アクロバットの混成曲」「ロシヤの踊りカマリンスキー」「蛇踊り」「レスリング」「フィナーレ」といったもので、寄席の舞台を再現したものだったという。作品の内容的には、リュミエールよりエジソンに近い。新聞は好意的に紹介したが、熱狂は見られなかったと言われている。

 上映した日付をみるとリフランスのュミエール兄弟よりも「ビオスコープ」の方が早いが、作品の質や映写機の機能性がシネマトグラフに程遠く、ものめずらしさの域を出なかったため「世界初の映画」の称号は得られなかったとう。だが、このことから、後にアドルフ・ヒトラーは、映画を発明したのはドイツであると主張した。