フェイマス・プレイヤーズの設立とアドルフ・ズーカー

 ユニヴァーサルとミューチュアルという独立系の映画製作会社が設立された一方で、後の大会社「パラマウント」へとつながる映画製作会社が1912年には設立されている。映画興行で財をなしたアドルフ・ズーカーが設立した「フェイマス・プレイヤーズ」がそれである。「有名な演劇を有名俳優で」がモットーで、著名な演劇プロデューサーのデイヴィッド・ベラスコと協約を結んだ。また、「大列車強盗」(1902)のエドウィン・S・ポーターを製作責任者として雇い入れている(グリフィスにも依頼したが断られている)。ポーターは長篇「ゼンダ城の虜」を2万ドルの製作費で製作し、翌年(1913年)に公開されている。作品は大ヒットすることになる。

 ちなみに、「有名な演劇を有名俳優で」というモットーは、後にパラマウントの撮影所長となるシュルバーグが作ったものだといわれている。シュルバーグは1912年に宣伝担当としてズーカーに雇われていた。

 そのアドルフ・ズーカーは、長期ロードショー制度をアメリカに持ち込み(作品はヨーロッパ映画を上映した)、サラ・ベルナール主演の「椿姫」(1912)の上映などで成功を収めていた。また、同じくサラ・ベルナール主演の「エリザベス女王」(1912)のアメリカ独占配給権を1万8千ドルで購入し、ここでも大成功を収めている。

 1912年当時、アメリカの映画興行の多くは、まだ日替わりで一巻を超える映画はまだ少なかった。これは、映画館(ニッケルオデオン)が労働者階級のものだったことを意味している。ヨーロッパでは1906年から1908年にかけて豪華な映画館が作られたが、アメリカではまだだった。

 とはいえ、2,3巻ものの映画も製作されるようにもなってきていた。2,3巻ものの映画は、人物の性格を語ることを可能にし、監督の手腕が作品の出来に影響するようになった。このことは先に挙げたスターの誕生にも影響を与えている。アレグザンダー・ウォーカーは次のように書いている。

「このような映画は長期間の興行に耐え、そして人気俳優の“おなじみ”的な印象も強められたのだ」(「スターダム」P37)

 またこの頃には、著作権を規制する法律が発効し、原作料を支払わなければならなくなっており、制作費の回収に重きが置かれるようになった。そうなると、効果の確実な俳優に重きを置くようになり、俳優の出演料も上がっていった。

 ズーカーが輸入して上映したような、ヨーロッパ大作映画が1912年から1913年にかけてアメリカで上映されるようになり、映画興行はニッケルオデオンから劇場へと移っていくことになる。

 ズーカーは映画がニッケルオデオンから大きく立派な映画館に、労働者から中流階級にと変化していくことを見越して興行を行い成功させ、さらには中流階級にあった作品がヒットすることを見越してフェイマス・プレイヤーズ社を設立したといえる。ズーカーの先見性は賞賛すべきものだろう。

 ちなみに、ズーカーは演劇プロデューサーと協約を結ぶだけではなく、当時の第一級のスター女優であったメアリー・ピックフォードを週給500ドルでフェイマス・プレイヤーズに入社させている。ズーカーはスターの重要性も認識していたことが分かる。

 ちなみに、メアリー・ピックフォードの週給は人気の上昇と共に増え、1914年2月に週給千ドル、1914年11月には2千ドル、1915年3月には4千ドルになり、1916年9月には1万ドルとなり、1917年にはファースト・ナショナルに一本あたり35万ドルで移籍する。



(映画本紹介)

スターダム―ハリウッド現象の光と影

スターダム―ハリウッド現象の光と影

銀幕を飾った映画女優を分析した一冊。単なる紹介ではなく、時代背景や映画の変遷と絡めて書かれた底の深さは、一読に値する。