映画評「サニーサイド」

 原題「SUNNYSIDE」 製作国アメリ
 製作ファースト・ナショナル・ピクチャーズ 配給ファースト・ナショナル・イクジビターズ・サーキット
 監督・脚本・出演・編集チャールズ・チャップリン

【映画の結末まで触れていますので、注意してください】

 チャーリーは雇われ人。朝食から、牛の世話、ホテルのフロント、ロビーの掃除とあらゆることをやらされている。そんなチャーリーの唯一の生きがいは、エドナという愛し合う人物がいるから。しかし、金持ちの紳士が登場し、エドナを奪ってしまう。失意に暮れたチャーリーは車に轢かれて死のうとするが、エドナが奪われてしまうのは夢だった。

 チャップリンの短編の中では、あまり知名度は高くない作品である。世評もあまり高くない。しかし、私は「サニーサイド」を高く買っている。これまでも繰り返し短編の中で繰り返されてきた、貧しい男のロマンスは「サニーサイド」で完成している。

 「サニーサイド」のストーリーで最も注目すべきは、そのラストだろう。チャップリンは、「サニーサイド」をハッピーエンドにしている。しかし、よくよく考えてみると、このハッピーエンドには毒がある。

 どこまでが夢で、どこまでが現実かを「サニーサイド」ははっきりと示していない。もしかしたら、エドナが紳士に奪われていないというラストの部分が夢なのかもしれない。夢の中(として描かれる)チャーリーは、紳士にエドナを奪われたショックから、走ってくる車に轢かれて死のうとし、尻を突き出す。その映像に、雇い主から尻を蹴られる映像が重なり、チャーリーは目覚める。従って、「エドナを奪われたのは夢でした」となるのだが、見方によっては車に轢かれて死んだチャーリーがエドナとのハッピーエンドを夢見ているとも取れる。そうだとしたら、このラストはあまりにも悲しい。

 「サニーサイド」のラストの解釈は多様だ。見る人が捉えたい捉え方をすることが可能になっている。おもしろいのは、どちらに解釈しようとも、貧しいものの悲しみという点では同じだということだ。もし夢だとしても、チャップリンが常に自らの貧しさからエドナを失ってしまうことを恐れていることになるし、幻想だとしたら失恋による失意の死という悲しい結末となる。

 結末がどうであれ、「サニーサイド」は非常に悲しい作品だ。チャーリーの苦しい境遇、唯一の生きる希望であるエドナを奪われるシーンは、たとえ夢だとしても、見ていて苦しくなってくる。チャーリーが、精一杯着飾ってエドナの心を取り戻そうとするシーンは、あまりにも見ていて苦しい。チャップリンが悲喜劇の映画監督として超一流であることを「サニーサイド」は意味している。

 パントマイム芸やギャグはそれほど冴えていない。その代わりにあるのは、苦しい境遇にあるチャーリーだ。チャップリンの役者としてのすばらしさが「サニーサイド」にはある。

 多様な解釈が可能なストーリーの素晴らしさ。「サニーサイド」は生きることの厳しさすら感じさせる。ドタバタの殻にくるまっていてぼやけていた、短編におけるチャーリーの悲しさが、「サニーサイド」では爆発している。たとえ、「サニーサイド」がチャップリンにとって契約をこなすために、気乗りせずに撮影した作品だとしても(そのために、今までのチャップリン喜劇の枠を借りてきているとしても)、「サニーサイド」は傑作というに値する輝きを持っていると私は思う。

 ちなみに、DVD「ラブ!チャップリン」には、カットされたシーンが収録されている。チャーリーが客の髭を剃るドタバタで、「独裁者」(1940)を思わせる動きを見せている。