バスター・キートンが語る当時のコメディ作り

 当時はチャールズ・チャップリンハロルド・ロイドバスター・キートンの映画は、その他のジャンルの人気スター主演映画より上だった(ちなみに、チャップリンとロイドは自分の作品の権利を押さえて後年も財産を稼いだが、キートンはずっと現役でいられることの方に価値を置いていた)。コメディは大衆の人気を得ていた。当時のコメディ映画作りについてキートンは、自伝の中で次のように書いている。

 「この自由気儘な時代には、みんなコメディ映画を作るのを楽しんでいた。仕事は一所懸命だ。我々の場合は、映画作りの最初から最後までつきっきりである。その昔、我々−チャップリン、ロイド、ハリー・ラングドン、それに私自身−は誰でも、物語を作る第一日目から脚本家たちと一緒に仕事を始めたものである。舞台装置も、配役も、ロケの場所(ロケ地はよくユニット・マネージャーと一緒に足を運んで自分の目で探し、映画にふさわしいかどうかたしかめた)も全部自分で確認した。自分の映画は自分で監督し、撮影を進めながらギャグも自分で考え出し、ラッシュ・フィルムを見て、編集を監修し、覆面試写会にも足を運んだ」

 「小さな撮影所で仕事をする最大の利点は、新しい映画のたびに同じ顔触れの仲間たちと、ひとつのチームとして一緒に取りかかれることである。監督と、脚本家が二、三人、それに私自身が物語を考えるのだが、その時には他の連中−小道具係、ロケ地を探しに行く製作進行、二人のキャメラマン、それに編集者−も同席している」

 ドラマの分野では徐々に分業制が進んでいたが、喜劇の分野ではまだ1人の人間が中心になって製作する手法が生きていた。キートン映画の製作者だったジョセフ・スケンクも、配給会社のメトロも製作には口を挟まなかったという。やがて、分業化の波は徐々に喜劇の分野にも押し寄せてくることになる。

 ちなみに、当時キートンは2台のキャメラを並べて、撮影を行ったという。理由はアメリカ用とヨーロッパ向けのネガの2種類を作るためだった。

 また、キートンはストーリーが重要だと考えていた。だが、脚本を紙に書き起こすことはせず、撮影中に思いついたアイデアも取り入れたという。キートンの映画には視覚的ギャグが必要だったため、ブロードウェイの劇作家を雇ったことがあったが、失敗した。また、ウィリアム・ランドルフ・ハースト系の新聞でユーモアのあるコラムを書いていたバッグス・ベアーを雇い入れようとしたが、ハースト系の会社側の反対で失敗に終った。後に有名な劇作家となるロバート・E・シャーウッドが摩天楼のビルの上から降りられなくなる男のアイデアをもらったが、終わらせ方を見つけられずに映画にすることができなかったという。

 キートンは観客の反応も重要視した。覆面試写を行い、最終形の参考にしたといわれている。また、キートンのキャラクターの代名詞ともいえる無表情(「ストーン・フェイス」と言われた)を取り入れたのは、ファンレターで無表情を指摘されたからであって、それまで気づいていなかったらしい。1度映画の最後に笑って見せたが、不評だったという。


バスター・キートン自伝―わが素晴らしきドタバタ喜劇の世界 (リュミエール叢書)

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