映画評「巴里の女性」

製作国アメリカ 原題「A WOMAN OF PARIS: A DRAMA OF FATE
チャールズ・チャップリン・プロダクション製作 ユナイテッド・アーティスツ配給。
監督・製作・脚本・編集チャールズ・チャップリン 撮影ローランド・トザロー、ジャック・ウィルソン 編集モンタ・ベル
出演エドナ・パーヴィアンス、カール・ミラー、アドルフ・マンジュー、クラレンス・ゲルタード、リディア・ノット

 駆け落ちを誓うジャンとマリー。父親の急死によって約束の場所へ行けないジャン。心変わりをしたとマリーは思い込む。数年後、パリで金持ちの愛人となったマリーは、画家を目指すジャンと再会。ジャンの元へ戻ろうとするマリーだが、反対する母親に「結婚しない」とジャンが語っているのを聞いたマリーは、愛人の元に戻る。苦悩するジャンはついに自殺してしまう。


 チャップリンが監督に専念した作品である。チャップリンの作品のヒロインとして多数の作品に出演してきたエドナ・パーヴィアンスを主演に据えて、エドナをスターにしようと監督された作品と言われている。エドナは社交界の豪華な衣装や、田舎町に住む女性らしい質素な衣装を身にまとい、豪華さやしとやかさといった対極的な魅力を1本の作品の中で披露している。

 「巴里の女性」はチャップリンが出演していないため、他のチャップリン映画がチャップリンの至芸とも言えるパントマイムによって唯一無二の作品群として抜群の知名度を保持しているのに対して、知名度が低い。しかし、決してつまらない作品ではない。むしろ、チャップリンが映画監督として素晴らしい腕前を保持していたことを証明しており、監督のみの悲劇群も見てみたかったと思わせるほどだ。

 列車自体を見せずに、光と影の移動によって列車の到着を観客に分からせるシーンが当時話題になったという(このシーンは実は予算をカットする目的で列車を使わなかったと言われる)。また、タンスの中に男性物のカラーがあることで、マリーに愛人がいることをジャンが知るシーンは、その間接的な表現が注目されたともいう。これらは確かに素晴らしいが、「当時としては」という前提があるため、素直に「素晴らしい」とは思えない面もある。

 それよりも、チャップリンの素晴らしさを感じさせるのは、チャップリンの物語への視線である。ストーリー自体は、田舎から出てきて、持ち前の美貌を武器に何人もの金持ちと結婚して有名人となっていた、当時チャップリンの知り合いだったという女性をモデルとしているらしいが、問題はストーリー自体ではなく、ストーリーに対するチャップリンの視線である。チャップリン自身が出演している作品群にも、社会や人間への辛らつな視線を感じることができるが、「巴里の女性」にも同様の視線がある。ジャンは運命と女性に翻弄される被害者であると言えるが、その一方ではジャン自身の意思の弱さや行動力不足も原因であるように描かれている。マリーは「幸せな家庭」を築きたいという気持ちを胸に描きながらも贅沢な暮らしからは脱却できない(「贅沢は重要じゃない」と言わんばかりに窓の外に投げたネックレスを、通行人が持っていこうとするのを見て、奪い返しに走るシーンを見よ)。ジャンの母親は、一見心優しい女性に見えるが、ジャンへの過剰とも言える愛は自分自身のためにようにも感じられる。

 これらの辛らつな視線は、素晴らしい演技によっても支えられている。チャップリンの監督としての手腕はここにも活きている。チャップリンは俳優たちに演技を抑えさせ、当時これほど抑えた演技の作品はなかったと言われている。ジャンの母親は、決して感情を熱く表に出すことはなく、始終困ったような顔をしている。それによって、私たちはジャンの母親の息子への愛情が利己的な面もあることを見逃しそうになる。そして、私たちは利己的な人物が一見するだけでは利己的ではないように感じられることを知っている。ちなみに、ジャンの母親を演じたリディア・ノットは、チャップリンの演技を抑えるようにという要求とぶつかったという。

 アドルフ・マンジューが演じているマリーの愛人であるピエールのキャラクターが素晴らしい。DVDの映像特典でリヴ・ウルマンが、「ピエールとマリーも愛し合っており、もし2人の間に金銭的な関係がなければ結ばれていたかもしれない」という内容のことを語っていた。確かに、ピエールとマリーの関係は単に肉体と金銭の取引を超えた関係であるように見える。並みのメロドラマであれば、マリーとジャンの恋を邪魔する憎まれ役となっていてもおかしくないピエールのキャラクターは、チャップリンの辛らつな視線(ある男女の恋路の邪魔をする男が憎めないというのは、辛らつだ)とマンジューの演技の素晴らしさで、人間味に溢れたものとなっている。


 「巴里の女性」はチャップリンの観察眼の鋭さによって、単なるメロドラマではない作品となっている。だが、エドナ・パーヴァイアンスをスターにしようという意図が、映画を少しぼやけたものにしてしまっているようにも感じられる。チャップリンの人間や社会への辛らつな視線は、映画を一連のストーリーよりも、人間という生き物が持つ性質や欲望などを浮かび上がらせることに成功している。だが一方で、エドナ・パーヴァイアンスが絶対的な主演として存在しているがゆえに、エドナを中心としたメロドラマとしての側面も強く持っている。ピエールが敵役となり、ジャンとマリーの恋愛を邪魔すれば映画は盛り上がるものの、チャップリンの辛らつな視線は、単純な物語として「巴里の女性」を描くことを許さない。

 「巴里の女性」は批評家からは絶賛されるものの、興行的には失敗に終わる。その原因として、チャップリンが出演していないことを挙げられるが、私はそれだけだとは思わない。「巴里の女性」がメロドラマとして盛り上がる作品であれば、チャップリンが出演していようがいまいが、ヒットしたのではないかと思う。だが、チャップリンはそうはしなかった、いやチャップリンには単純なメロドラマは作れなかったのではないだろうか。

 「巴里の女性」の視線は、現在で言うならば商業的なヒットは難しい、緻密な人間群像劇のような視線なのだ。しかし、映画の大枠はメロドラマを指向している。ここに、エドナをスターにしたいという目的と、映画を作るからには自分が作りたいものを作りたいというチャップリンの映画監督として欲望のきしみが聞こえる。ブルースが聞こえる。


 このブルースは、「巴里の女性」が、チャップリン自身が設立に参加したユナイテッド・アーティスツの配給の第一作であったことを考えると、悲しみの色を増す。チャップリンはすでに自身のプロダクションを持っていたが、「巴里の女性」から完全に自由で独立した立場で映画を製作できるようになったのだ。

 チャップリンは自分が思い通りに作れる環境になって製作した映画の第一作に、自分のこれまでの作品をヒロインとして支えてくれたエドナ・パーヴィアンスのための作品を選んだ。だが、一方でチャップリンは自分の映画監督としての欲望を曲げることは出来なかった。私にはそう感じられる。

 私にとって「巴里の女性」は、映画技法的な素晴らしさとかいった部分ではなく、チャップリンエドナへの思いと、映画監督としての映画作品への思いという、どちらにも拍手を送りたくなるような部分が、どうしても両立できなかった作品として胸に刻まれている。


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