ルドルフ・ヴァレンティノの急死とポーラ・ネグリ

 1920年代を、サイレント期を代表するスターだったルドルフ・ヴァレンティノが、1926年8月23日に虫垂炎胃潰瘍を併発して急死した。31歳だった。入院したときには医師団が1時間おきに容態を発表するほどの大きな出来事であり、死亡が分かったときには、入院していた病院の前で2人の女性が後追い自殺したという。ニューヨークで行われた葬儀では10万人以上のファンが3日間に渡って押し寄せ、騎馬警官が出動し、100人以上がケガをする事態となった。葬儀は、ニューヨークだけではなく、ハリウッドでも盛大に行われた。また、以後30年間に渡り、ヴァレンティノの墓には、命日になると女性ファンが花束を届けたという伝説も残している。ヴァレンティノの死は、スターに親近感を抱くファン心理が、社会的に大きな影響を与えた初めての事件とも言われる。

 当時ヴァレンティノはポーラ・ネグリと付き合っており、急死しなければ結婚するはずだったと言われている。ネグリは、ヴァレンティノの死に際して、アメリカを横断してかけつけたが、新聞は「人気取り」と呼んだという。ドイツからハリウッドへやってきていたネグリは、異国風の挙動が大衆をいらだたせたとも、ユーモアに欠けていたとも言われ、ハリウッドに順応していたとは言えなかった。そんなネグリには、ヴァレンティの死に続いて、トーキー化の波によってヨーロッパ訛りの強い英語が弱点となるという苦難の道が待っているのだった。

 「ラテン・ラヴァー」(すぐに女性を口説く色男の意味)と言われ、男性たちの嫉妬心から性的不能といった噂が飛んだ、最初の二枚目スターであるルドルフ・ヴァレンティノは、「芸術家としての成果よりもむしろ私的な性格によって世の関心を引くスター」(アレクザンダー・ウォーカー「スターダム」)と言われるスターにふさわしく、死まで多くの人々の関心を呼んだ。

 翌年、ヴァレンティノを「黙示録の四騎士」(1921)の主役に推薦した恩人の脚本家ジューン・マシスも死去している。マシスは、ヴァレンティノの墓の隣りに葬られた。

スターダム―ハリウッド現象の光と影

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