イタリア映画と「ポンペイ最後の日」

 イタリアでは多くの映画会社が設立され、映画製作は順調に行われていた。映画はマンネリ化によって、世界的に観客離れを起こしていたが、イタリア映画は文芸物や歴史物で人気を得ていた。

 解散したカルロ・ロッシ社にいたジョヴァンニ・パストローネが設立したシャメンゴ・エ・パストリーネ社は、1908年9月にイタラ・フィルムと改称している。パストローネは、専務として製作全般の責任を持った。

 イタラ社は、フランスで人気を得ていた喜劇俳優アンドレ・デードを引き抜き、フランスでのニックネーム「ボワロー」を「グリブイユ」に変えて喜劇映画を製作した(公開は1909年より)。アンドレ・デードのアクロバットに巧妙なトリックをむすびつけるというスタイルはイタリアで確立されたものだという。デードの作品は、イタラ社に大きな利益をもたらし、イタリアに喜劇の流行を定着させ、「シリーズ物」の慣行を確立した。作品の多くは通りやトリノ郊外で野外演出されていた。

 アンドレ・デードはフランス人だが、デードや同じフランス人のマルセル・ファーブル(イタリアではロビネット)といったフランス喜劇役者が、イタリア喜劇を牽引していた。

 イタラ社は、喜劇映画だけではなく、ジョヴァンニ・パストローネの手腕で、技術のすぐれた会社という評価を得たと言われている。この年は、実写ものの「稲作」(1908)や、劇映画の「父の罪」(1908)が製作されている。「父の罪」はパリの世界最大の映画館イッポドロームの開巻番組だったという。

 カルロ・ロッシ社の創立者であるカルロ・ロッシはチネス社へと移り、社長となった(その後、サリメイ伯爵に引き継がれる。伯爵は1911年まで在任)。チネス社はパテ社、ゴーモン社に次ぐ規模の映画会社となっていた。チネス社では、マリオ・カゼリーニが歴史コスチューム映画の監督として活躍した。大自然の背景の中で大エキストラを展開させた初期の監督の一人といわれている。この年は、「マルコ・ヴィスコンティ」「ロミオとジュリエット」といった作品を監督している。

 また、ニュース映画撮影者であり、国王の個人的カメラマンとなって記録映画なども撮影していたルーカ・コメリオが、ミラノでイタリア映画製造株式会社(SAFFI)社を設立している。フィルム・ダール的の主題や、探偵シリーズの映画を製作していくことになる。第一作として、イタリア民族文学の代表作であるマンツォーニ原作「婚約者」(1908)を、ジュゼッペ・デ・リグオロ監督で送り出している。

 ローマのピネスキ兄弟社は、蓄音機を映画に併用する実験を行った。ジョゼッペ・ヴェルディのオペラ「吟遊詩人」(1908)を、ピネスキ音声劇場と呼ばれるシステムで上映した。人気を得るが、オペラの音楽著作権管理会社から警告を受けて中止したという。

 のちに「クオ・ヴァヂス」(1912)を監督するエンリコ・グアッツォーニは、この年コスモスを設立している。「野生の花」を女優テルリービリ・ゴンザレス主演で製作するなどの活動を行った。

 ミラノで1908年に設立されたアドルフォ・クローチェ社は、航空ショーの実写フィルムで名を売った。

 喜劇の分野では、アンドレ・デードの作品以外にも、「おれの首をみたか?」「バラバラ人間」(1908)などのトリックを使った映画も作られたが。だが、観客はフランス映画で見慣れており、イタリアの芸人たちの面白さを好んだという。パントマイム、アクロバット、軽業師といった芸人たちが映画に出演、またボクシング、乗馬、自転車、スケート、ダンスを扱ったコメディも作られた。カフェ・コンチェルトの人気出し物の政治風刺の映画も作られた。パントマイムや歌や芝居で、政治家などの仕事ぶりや私生活を風刺するというもので、この年は「ぼくは政治に夢中」(1908)などが作られている。

 アンブロージオ社はこの年、「ポンペイ最後の日」(1908、監督ルイジ・マッジ、撮影ロベルト・オメーニャ)を製作している。バルワー・リットン卿のベストセラー小説の映画化であり、上映時間18分の作品だった。多数のエキストラを使った大作であり、ローマでは14の映画館が同時封切りで大ヒット。世界的にも大ヒットした。この作品のヒットもあり、イタリアでは各社が多数のエキストラを使った古代ローマの超大作を制作されることとなり、世界的な人気を集めていく。

 アンブロージオ社では他にも、ロベルト・オメーニャが撮影した実写フィルムでも成功を収めている。中央アフリカで撮影した「豹狩り」と、陸軍騎兵士官学校における激しい乗馬訓練を撮った「ケンタウルス」である。オメーニャは、当時まだヨーロッパでは馴染みの薄かった地域を撮影したエキゾティック・フィルムと呼ばれるジャンルのパイオニアで、アフリカ、東洋などで多くの記録映画を撮影したという。他にもアンブロージオ社には、世界で最初の早撮りカメラマンの1人とも言われるジョヴァンニ・ヴィトロッティが活躍していた。

 アンブロージオ社は、この年株式会社となり、スタジオも市内カタニア通りに移している。製作の産業化を企図し、脚本家・俳優・カメラマン・技師らと正式に契約を結んで体制を整えた。脚本部長として、アルリーゴ・フルスタと月3本の脚本執筆の契約を結んだ。また、片腕でもあった撮影技師ロベルト・オメーニャの撮影部は完備されたものだったという。

 当時の作品は1週間ほどで撮影され、上映時間10分程度の作品がほとんどだったという。脚本家は新聞記者、教師、新人など出身は様々で、10分前後の脚本のために、図書館や全集などを手当たりあたり、脚本化していったらしい。原作物、歴史上の人物を主人公にした作品、イタリア統一ものは好まれて映画化されたという。一方で、急いで作ることが重要で、登場人物は類型化されたと言われている。

 イタリア映画の最大の強みは、人件費が安いために多数のエキストラを使用することできることだった。フランスなどでは予算の関係で製作することができなかったタイプの作品をイタリアが生み出しことができたのだった。