日本 松竹キネマの興行部門

 松竹を設立した大谷竹次郎の理想は、「今までの映画よりも少しでもいいから良いものを作りたい」というものだった。見通しが立つまで自分たちの責任でやっていくために、株式組織に反対したと言われ、熱心な若い人たちの考えを自分の考えよりも優先させたという。

 興行よりも製作を優先した松竹だが、試作映画が出来、田口桜村の2度目の洋行で外国映画も少し入手したため、直営館の経営に乗り出している。最初の直営館は銀座の金春館である。弁士の徳川夢声を引き抜き、外国映画専門とした。また、浅草柳原の中央劇場も直営とした。

 その後、恐慌のために大衆向けの興行を目指し、声色鳴物入り映画も製作、声色映画などを濫造するようになった。その後も常設館も増えたが、低俗な方向の映画を製作するようになっていったという。