映画評「鉄路の白薔薇」

※ネタバレが含まれている場合があります

[製作国]フランス [原題]LA ROUE [英語題]THE WHEEL

[監督・脚本]アベル・ガンス [撮影]マルク・ビュジャル、アルベール・デュヴェルジェ、レオンス=アンリ・ビュレル

[出演]セヴラン・マルス、ガブリエル・ド・グラヴォンヌ、アイヴィ・クロウス、ピエール・マニエ

 当時、フランスを代表する監督だったアベル・ガンスによる脚本・監督作品。ガンス自らが運営する製作会社によって製作されている。

 運転機関手のシジフは、列車事故で母親を失った女の子の赤ん坊のノルマを、自らの息子であるエリーと共に自分の子として育てる。十数年後、シジフは大きくなったノルマを愛してしまい苦悩する。ノルマを無理やり嫁に出したシジフだが、真実を知ったエリーに糾弾される。そんなある日、シジフは機関車を整備中に眼にケガをして、視力がどんどん失われていく。

 堂々たる大作で、オリジナルは8時間あったという。それが、劇場公開用に5時間弱にまで縮められたというが、現在ではそのバージョンは残されていない。私が見たのは、現存している3時間強のバージョンである。

 内容は、3人の家族を中心としたメロドラマである。ガンスはメロドラマをしっかりと語るという基礎の上に、車輪や線路を人生に見立てた比喩を、様々な映像テクニックを駆使して描き出している。

 二重露出に加えてコマ落としといったカメラの機能を使ったテクニック、クロース・アップに加えて極端な照明による陰影といった被写体の捉え方、カット・バック、「フラッシュ」と呼ばれた細かいショットの積み重ねといった様々な技法が集積された作品である。当時の同時期の作品において、「鉄路の白薔薇」ほど、映画のテクニックを駆使した作品は見当たらない。

 D・W・グリフィス監督は「国民の創生」(1915)や「イントレランス」(1916)で、自らが磨きをかけていった映画の話法を使って、映画が舞台やオペラや詩や小説にも負けないストーリーを語るに適した存在であることを証明しようとした。この作品を見ていると、アベル・ガンスは映画を舞台やオペラや詩や小説とは異なる何かにしようとしているかのようだ。それくらい、「鉄路の白薔薇」はこれまでの作品にはない独特の作品となっている。

 ストーリーはびっくりするくらい単純だ。馬鹿馬鹿しいといってもいいくらいだ。だが、ガンスはこのストーリーをしっかりとじっくりと紡いでいく。シジフがノルマへの愛に気づいたことを、ガンスはシジフがブランコで遊ぶノルマのスカートから覗く2本の美しい足に視線が釘付けになっていることをクロース・アップで示し、「愛」が肉欲とつながっていることを示す(ノルマの足の美しさは、ノルマの結婚相手も褒める。そこにも肉欲がある)。シジフが機関車に異常なまでの愛着を示している点は、シジフが壊れかけた機関車を自らの手で廃車にすることよりも、むしろ廃車となった機関車がゆっくりと運ばれる後ろに葬列のようにトボトボと歩くシジフの姿で表現される(しかも、まるでシジフの思いが呼び寄せたかのように、本当の葬列とすれ違う)。

 「鉄路の白薔薇」のメロドラマはシジフとノルマの和解へと至る。このメイン・イベントを映画は大げさで感動的なシーンとはしていない。ノルマがシジフの家へとやってきて、静かに暖炉の火にあたり、空腹からテーブルの上に置いてあったパンにかじりつく。そして、それをシジフの飼い犬であるトビーが見ている。次のショットで、トビーは亡きエリーの墓の前で吠えており、次の字幕が。「トビーはエリーに話すことがたくさんあった」。

 この長い物語の頂点とも言えるシーンは、静かに、しかし心に染み入るものとなっている(もしかしたら、フィルムが欠落しているだけで、もっと華やかなシーンもあったのかもしれないが)。

 はっきりいって、「鉄路の白薔薇」は現存している3時間でも、物語的には少し長い。だから、オリジナルの5時間のバージョンはもっと長く感じられたことだろう。だが、現在の私たちが知っている話法に近い位置とはいえ、アベル・ガンスは映画の到着点を違う点に求めていたように思える。物語を語ることに汲々とするのではなく、もっと時間的な余裕を得ることで映像的な比喩を多用したものにしようとしていたのではないかと感じられる。映画は、結局ガンスの求めている方向よりも、より物語を語る方が主流となって進んでいくことになる。だからといって、ガンスの描いた映画が劣っていたわけではないだろう。それは、「鉄路の白薔薇」が証明している。

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