フィルム・ダールが目ざした「芸術」

cinedict2007-05-09


フィルム・ダールとは1907年にフランスで設立された映画製作会社のことである。「フィルム」とは映画のことであり、「ダール」とは芸術のことである。その名の通り、芸術的な映画の製作をフィルム・ダール社は目指した。

 フィルム・ダール社が「芸術」と指したものの第一は舞台であった。この考え方は当時の中流階級以上の人々の考え方と同じであった。

 当時、映画はまだ誕生して12年しか経過していなかった。映画誕生初期は、映画は祭りで見ることが出来るような数々ある見世物の1つに過ぎなかった。現在にたとえると、遊園地などで見ることができる、動く座席に座って映像を見るアトラクションのようなものと言えばよいだろうか?それは、人々に一時的な非日常的な楽しさを与えてくれるのみで、それ以上のものはなかった。

 一時のアトラクションに過ぎなかった映画は、ジョルジュ・メリエスに代表されるトリック映画や、「大列車強盗」(1903)のような短いストーリーを語る作品や、コントや追っかけといった喜劇的な作品が作られるようになり、「映画」という存在そのものの面白さから、作品の面白さへと映画の魅力は移っていった。ハードからソフトの時代へと移り変わっていったわけである。

 ソフトの時代を迎えた映画だったが、いわゆる「芸術」の仲間入りは果たせていなかった。映画はあくまでも単なる見世物に過ぎず、一時の楽しみを与えてくれる存在でしかなかった。その証拠の1つして、当時の作品の多くは失われてしまっている。映画は当時同じ作品を繰り返し見るものではなく、その場限りの存在だった。

 中流階級以上の人たちにとっては、さらに映画は取るに足らないものだった。映画は舞台のように優れた演技を見せてくれる俳優が登場するわけではなく、優れた舞台作家による舞台のように魅力的なストーリーやセリフがあるわけではなかった。

 舞台や小説を映画に置き換える試みがなかったわけではない。シェイクスピアのような有名な戯曲の映画化もされていた。しかし、それは戯曲そのものの魅力を引き出すには不十分だった。それは戯曲の有名な場面を映画化しただけだったり、有名な俳優の演技の一端を見ることが出来るという見世物的な側面を持っていたに過ぎなかった。

 フィルム・ダールはその名のとおり、映画を芸術化しようとした。その試みとして、舞台でも取り上げられるような高尚な題材を取り上げ、舞台に出演する有名な俳優たちを出演させた。フィルム・ダール社の代表作である「ギーズ公の暗殺」(1908、写真)は、脚本を劇作家のアンリ・ラヴダンが担当し、コメディ・フランセーズの役者が出演したものだった。

 フィルム・ダール社の作品は、舞台を撮影するかのように撮られていた。そんなフィルム・ダール社の作品は、芸術を志すその姿勢は評価されたものの、興行的には失敗に終わった。フィルム・ダール社の最大の失敗は、映画を芸術にするためには、芸術である舞台を撮影すればよいという姿勢だったことにあるだろう。映画には映画独自の魅力があることにフィルム・ダール社は気づいていなかった。

 新しい技術により、新しいメディアが登場したとき、最初はそのハードに注目が集まる。映画においても、トーキーが誕生した直後は内容など関係なく、ひたすら音楽とセリフがあればよいという作品が多く作られた。ラジオが誕生した直後は何かが聞こえていればよく、テレビが誕生した直後は何かが映っていればよかった。インターネットが誕生した直後はメールが送れ、ウェブ上で何かを見られるだけでよかった。しかし、ハードはすぐにソフトの時代へと映る。ラジオはラジオの特性を活かしたDJの楽しいおしゃべりを加えた音楽番組などを生み出し、テレビはテレビの特性を活かしたニュースやスポーツ中継番組を生み出し、インターネットはインターネットの特性を活かしたSNSのようなサービスを生み出してきた。

 ハードからソフトの時代へと移行する過渡期には、必ず試行錯誤が行われる。そして、この試行錯誤が行われるとき、必ず以前からある文化なりメディアを活かそうという試みが行われる。テレビは映画を取り込んで、映画をテレビで放送しようとしてきたし、インターネット上でもその試みは行われている。ニュースの分野においては、新聞の情報をテレビやインターネットは活用しようとしているし、現在でもその試みは続いている。

 こういった試みは成功して続けられるものもあれば、失敗する場合もある。ハードにはそれぞれ特徴がある。その特徴に合致した試みは生き延びていくし、合致しない試みは消えていくことになる。そして、それぞれのハードと合致した魅力は、他のどんなハードも発揮し得ない輝きを放つことになる。

 フィルム・ダール社の映画を芸術にしようして舞台を取り込む試みは、一言で言えば失敗だったと言えるだろう。映画というハードが持つ特色は、舞台をそのまま撮影することにあるのではなく、むしろ舞台が行うことが出来ないロケによるリアリティ溢れる背景の描写や、編集による時間や空間の操作や、被写体にどこまでも近づいていくことが出来る(遠ざかることも出来る)視点の変化といったものにあるからだ。

 とはいえ、フィルム・ダール社の試み自体が無駄だったわけでは決してない。映画は舞台をそのまま撮影することでは映画独自の魅力を発揮することはできないが、舞台で上演されるような主題を映画なりの手法で描き出すことが出来ることは、この後数多くの作品によって証明されていくからだ。その過程として、フィルム・ダールの社の試みはきっと必要なものだったのだろうと思う。

 映画が映画らしい魅力を発揮しながら、舞台のようにストーリーや演技の魅力を発揮するようになっていくきっかけはD・W・グリフィスによる力が大きいとされている。元々が舞台人を目指していたグリフィスは、映画の魅力にも開眼してからも、舞台の持つような魅力も映画に持ち込むことに成功している。グリフィスは、「ギーズ公の暗殺」の暗殺を見て、重要性を認めていたと言われている。

 そんなグリフィスは「ギーズ公の暗殺」が作られた1908年に、監督としてデビューしていく。フィルム・ダール社が当初から持っていた、映画を芸術にするという野心はグリフィスにバトンタッチされ、完成されていくことになる。



(映画本紹介)

無声映画芸術への道―フランス映画の行方〈2〉1909‐1914 (世界映画全史)

無声映画芸術への道―フランス映画の行方〈2〉1909‐1914 (世界映画全史)

映画誕生前から1929年前までを12巻にわたって著述された大著。濃密さは他の追随を許さない。