日本 日活向島新派と立花貞二郎の死

 日活は第一次大戦による好況で、業績が好調だった。向島撮影所を修理し、新しい専属俳優を雇い入れ、撮影班の数を増やした。山本嘉一や藤野秀夫、女形の東猛夫や衣笠貞之助らが入社している。それまでの輸入映画依存から、自社製作を重視するようになった。製作担当重役を新設し、鈴木要三が脚本の選定や配役の決定に立ち会うようになった。

 帰山教正から刺激を受けて、日活向島でも日本映画の革新に向けての動きがあった。山本嘉一、桝本清や田中栄三らが、興行者との摩擦を避けるために声色弁士の顔を立てながら、女形でも若くて美しい人を使い、場面転換を多くし、人工光線を使い、ヘッド・タイトルにスタッフの名前を入れ、それまでの書割から本物を使ったセットやロケを行おうとした作品が多く製作された。だが、これらの映画はわずかに特色を出したにとどまったと言われている。

 革新に向けて製作された映画には、「生ける屍」「金色夜叉」「続金色夜叉」「兄と弟」「父の涙」「国の誉」「乃木将軍」「新召集令」(1918)といった作品がある。

 「生ける屍」は冒頭のタイトルで監督と撮影者の名前が記されており、スタッフの名前がクレジットされた日本初の映画と言われている。また、この作品では、藤原幸三郎が担当した撮影にも工夫が凝らされ、ブリキ缶の中にカーボンを取り付けたものに反射鏡つきの電燈を取り付けて人工光を作り上げている。

 上記の作品でも女形として活躍した立花貞二郎は、帰山教正が女形を映画から排そうとしたのに呼応するかのように、肺結核でこの年死去している。


(映画本紹介)

日本映画発達史 (1) 活動写真時代 (中公文庫)

日本映画発達史 (1) 活動写真時代 (中公文庫)