映画誕生

 シネマトグラフ リュミエール兄弟(4)

そんな兄弟も間欠運動(フィルムを連続的に送りながら、一瞬ずつ静止させる仕組み)については悩んだらしい。だが、最終的に弟のルイが解決方法を考え出すことに成功した(このことにより、兄のアントワーヌはルイこそが唯一の発明者であると語っている)。 …

 シネマトグラフ リュミエール兄弟(3)

リュミエール兄弟はすでに、エジソンがキネトスコープで導入していたパーフォレーションについて知っていたため、一定の速度で中心をしっかりと据えてフィルムを送るという映画に必要な条件の1つをクリアーしていた。 また、多くの映画機械の開発者が入手で…

 シネマトグラフ リュミエール兄弟(2)

弟のルイは14歳のときに、写真の感光材の改良に成功する。その感光材の出来が素晴らしく、欲しいという人が大勢いたために、アントワーヌは工場を作って大量生産をして販売する事にした。「エチケット・ブルー」と名づけられたこの感光材は大ヒットして、…

 シネマトグラフ リュミエール兄弟(1)

リュミエール兄弟。「映画の父」として、映画史に輝く兄弟に話は移る。彼らの名前とともに輝く日付けがある。それは1895年12月28日。リュミエール兄弟が開発した上映式の機械シネマトグラフによる一般有料上映が行われた日だ。 覗き穴式の映像として…

 キネトスコープ エジソン(8)

結局、エジソンの映像は覗き見式のものとして開発され、1891年には特許が取られる。それは「キネトスコープ」と名づけられた。同時に撮影機についても特許が申請されており、こちらは「キネトグラフ」と名づけられた。 エジソンは研究には消極的だったに…

 キネトスコープ エジソン(7)

エジソンは自らが思い描いたものと異なる映像よりも、別のものに興味を持つようになる。それは、鉄鉱石選別の研究だった。純粋に発明の興味として映像よりも鉄鉱石選別に興味を持ったのかはわからない。だが、少なくとも投資先として、エジソンは鉄鉱石を選…

 キネトスコープ エジソン(6)

必要な要件が揃っていたにも関わらず、エジソンは映像にそれほど乗り気ではなかった。その理由は、当時の研究の結果がエジソンの描くものとはかけ離れていたからである。では、エジソンが描いていたものは何だったのか? エジソンが思い描いていたのは、トー…

 キネトスコープ エジソン(5)

なぜ、エジソンは映像の機械を開発するための要件をクリアする事ができたのだろうか?その答えは、エジソンのこれまでの実績と、それに伴う知名度によるものと思われる。エジソンはマレーの撮影機からヒントを得た。知識は共有すべきだというのがマレーの信…

 キネトスコープ エジソン(4)

研究が行き詰まった状況の1889年にエジソンはヨーロッパに休暇旅行へ行く。そして、エジソンはエチエンヌ・マレーを訪問し、マレーの撮影機を見たという。そして、すぐに自分の蓄音機式のやり方が間違っていた事を悟り、10月に帰国するとディクソンに…

 キネトスコープ エジソン(3)

きっかけはどうであろうとも、1888年からニュージャージー州ウエスト・オレンジのエジソンの研究所では、映像に向けての研究が始まった。実際に研究をメインで担当したのはウィリアム・ディクソンという人物だった。だが、ディクソンは持っている時間の…

 キネトスコープ エジソン(2)

エジソンは1894年に次のように記している。「1887年に、耳に対して蓄音機がなした事を視覚に対してなす機械を組み立てることができるという考えが私に起こった。この機械は音と運動という二つを組み合わせて、記録し同時に再生するのである」と。 当…

 キネトスコープ エジソン(1)

ここまで映画前史にあたる部分を見てきた。 興行的・娯楽的な部分は、映画の発展にとって関係ある部分といえるだろう。映画の誕生について直接関係のあるのは、残像現象によって人間が写真を映像と認識するために必要な機械や技術の開発の部分だ。 これから…