1910

 その他の国々(1910)

イギリスの映画製作は苦戦を強いられていた。 1910年にイギリスで公開された映画の割合は、パテを中心としたフランス映画36%、アメリカ映画28%、イタリア映画17%、イギリス映画16%だったという。イギリスの映画人口は増えて産業としては栄え…

 ロシアの映画製作−1910年

ロシアの映画館では、第一次大戦前まで、フランスのパテ社の作品がスクリーンを占めていた。ロシアでも映画製作は行われていたが、外国の会社によってロシアで製作された映画の方が、ロシアの会社の製作本数より多かった。 パテ社は、前年よりワシーリ・ゴン…

 デンマークにおけるアニタ・ニールセンのデビュー

ノーディスク社を中心に発展を見せていたデンマーク映画界では、国際的な人気を得た女優であるアニタ・ニールセンがデビューしている。デビュー作は「深淵」で、ウアバン・ギャズが演出を担当した。ギャズは、ニールセン専門の演出家として活躍していく。 ニ…

 セグンド・デ・チョモンとエミール・コール

セグンド・デ・チョモンはこの年、パテ社の委託で、ルイ・ガスニエとともにスペインの映画製作会社を組織した。この映画製作会社は、大スペクタクル、喜劇、夢幻劇を製作した。トリック映画は少数だった。スペイン的な映画を作り上げることに貢献したと言わ…

 フランス喜劇(2)

マックス・ランデー以外では、プランス=リガダンという人物がこの年からパテ社で活動を開始している。演出家のジョルジュ・モンカと共同で第一次大戦中も継続して7,8年作品を製作していく。作品間に連続性はなく、プランス=リガダンはさまざまな役柄を…

 フランス喜劇

文芸映画シリーズで結果を出せなかったフランスは、喜劇の分野で結果を出している。その中心となった人物はマックス・ランデーだった。 それまでフランスで人気を得ていたアンドレ・デードがイタリアの映画会社へと移籍したために、すでに喜劇に出演していた…

 文芸映画シリーズとイタリア映画

フィルム・ダール社による「ギーズ公の暗殺」によって火のついた文芸映画シリーズの製作ブームだが、フランスでは大きな成果は生み出せずにいた。 パテ社はこの年、フィルム・ビブリック社を設立してアンリ・アンドレアーニを中心に、文芸映画シリーズを製作…

 スターの引き抜き合戦(2)

また、メアリー・ピックフォード、ピックフォードの婚約者のオーウェン・ムーア、トマス・H・インスらがバイオグラフ社からIMPへ移籍している。ピックフォードは、バイオグラフの週給75ドルから125ドルとなった。この時レムリは、「可愛いメアリは…

 スターの引き抜き合戦(1)

MPPCと独立系映画製作会社の戦いは、スターの引き抜きという形でも現れている。MPPC側の映画会社が抱えていた最良の技術者と俳優たちの獲得を独立系の映画会社が狙ったのだ。 1910年3月、バイオグラフ・ガールの1人だったフローレンス・ローレ…

 MPPC側の映画製作(3)

バイオグラフ社では、引き続きD・W・グリフィスが活躍していた。「因襲打破を唱える人」(1910)では、組合参加の労働者を否定的に描いた。また、南北戦争を扱った作品では南部派の視点を採用していた。1909年から1911年にかけて、戦争を描い…

 MPPC側の映画製作(2)

カーレム社では、監督のシドニー・オルコットをイギリスに派遣し、ヨーロッパの人々やアメリカへやってきた移民向けの作品を演出させたという。 大手のヴァイタグラフ社では、「実生活の情景」を扱った映画を製作し、ヨーロッパでも文芸作品より人気を得た。…

 MPPC側の映画製作(1)

MPPCの中心会社であるエジソン社では、マッド・サイエンティストの代表的作品「フランケンシュタイン」の最初の映画化が行われている。大釜から登場するモンスターは、土葬された死人が数日後に土中からよみがえったような印象だっという。 パテ社は、4…

 アリス・ギィのアメリカでの映画製作

かつて、フランスのゴーモン社で製作責任者として活躍したアリス・ギィは夫と共にアメリカに渡っていた。そのギィは夫のハーバート・ブラシェと共に、ソラックス社という映画製作会社を設立し、第一作の「子供の犠牲」(1910)を製作している。 ソラック…

 MPPCと独立系の映画製作会社の対立

昨年より始まったMPPCと独立系の映画製作会社のアメリカにおける戦いはこの年も続いていた。MPPC側は「ジェネラル・フィルム社」という配給会社を設立し、配給部門を独占することを目論んだ。その目論見どおり、ジェネラル・フィルム社は多くの配給…