2007-07-01から1ヶ月間の記事一覧

 イタリア、ディーヴァの君臨

この頃、「ディーヴァ」と呼ばれた人気女優がイタリア映画を支配したと言われている。貴族や金融資本家たちは、ディーヴァの美しさにかけ、多額の投資をし、製作者・監督たちはディーヴァの奴隷となった。だが、ディーヴァの給料は決して高くはなかったとい…

 イタリア ネオレアリズモの先駆的作品

当時のイタリアの文学・演劇の世界では、18世紀末から19世紀始めにかけて、イタリア南部貧困階層を描いたヴェリスモ(真実主義運動)が起こっていた。 ヴェリスモ(真実主義運動)の劇作家だったナポリのロベルト・ブラッコは、戯曲「闇に迷った人々」の…

 イタリア ダンヌンツィオの影響

高い独創性、力強さおよびデカダンスが当時高く評価されていたガブリエーレ・ダンヌンツィオは史劇のみではなく、イタリア映画全般に影響を与えていた。 ダンヌンツィオのイタリア映画の影響について、吉村信次郎が「世界の映画作家32 イギリス映画 イタリ…

 イタリア映画最高の成功作「カビリア」

そんなイタリアでは1912年に製作され、世界的にヒットした「クォ・ヴァヂス」の成功の再現を狙い、「スパルタコ」(1914)といった作品が作られている。 イタラ社製作の「カビリア」(1914)は、そんな「クォ・ヴァヂス」の成功の再現を狙った作…

 イタリア映画(1914年)

この頃のイタリア映画は世界の先端を走っており、セットを収納する倉庫、小道具・大道具製作所、広大な屋外敷地、編集室、現像所を完備したアンブロージオ社とイタラ社のスタジオは、ハリウッドやドイツの手本となっていたという。 1914年8月には、第一…

 フランス映画(1914年)

パテ社で喜劇スターとして活躍していたアンドレ・デードは、第一次大戦に出征することになり、映画製作を中断している。 レオンス・ペレは「祖国の声」(1914)という愛国的な内容のドラマを製作している。ペレの演出はショットのサイズ、逆光、照明、大…

 第一次世界大戦の勃発

1914年は、第一次世界大戦が勃発した年でもある。主にヨーロッパを舞台に繰り広げられた第一次世界大戦は、ヨーロッパの映画製作を衰退させ、アメリカ(特にハリウッド)映画の需要を高めることになる。 (映画本紹介)無声映画芸術への道―フランス映画…

 その他のアメリカ映画−1914年

エジソン社は衰退していたが、映画製作を続けていた。「ONE TOUCH OF NATURE」「THE ADVENTURE OF THE HASTY ELOPEMENT」「THE ADVENTURE OF THE WRONG SANTA CLAUS」(1914)といった映画が製作されている。 「オズの魔法使」の原作者であるライマン・…

 日米映画会社

1914年、10数人の日本人が発起人になり、1万ドルの資本金で日米映画会社を組織されている。アメリカに渡った日系移民を扱った映画として「在米日本人の発展状況」(4巻物)「写真結婚」「闇の女」「日本人飛行家」「刀の誓」といった作品が製作され…

 ピンク映画の誕生

1914年、シカゴは検閲条例を修正し、21歳以上にのみ見せられる映画という分類を設けた。「ピンク許可」と呼ばれ、権限は警察に与えられた。当初の目的とは異なり、「ピンク許可」が猥褻な映画の暗号として大々的に宣伝されるようになったという。 (映…

 連続映画「ポーリンの危難」

アメリカで製作される連続映画は、新聞と結びついていた。前年新聞小説「キャスリンの冒険」(1913)の映画化で部数を伸ばした「シカゴ・トリビューン」紙に対抗して、ライバルのハースト系の新聞は「ルシル・ラブ」を1914年に連載開始し、ユニヴァ…

 ルイス・セルズニックと寝椅子方式

ハリウッドの大立者の話題が出てきたときに、なかなか話題に上らない人物にルイス・セルズニックがいる。セルズニックというと「風と共に去りぬ」(1939)の製作者であるデヴィッド・O・セルズニックが有名だが、そのデヴィッドの父親である。宝石商か…

 ウィリアム・フォックスの映画製作

W・W・ホジキンソンと同じようにグレイター・ニューヨーク・フィルム・カンパニーという会社名で映画配給を行っていたウィリアム・フォックスが、会社名を「ボックス・オフィス・アトラクションズ・フィルム・レンタル・カンパニー」と変えて、映画製作を…

 パラマウントの設立

当時はまだ映画製作者たちが中心に活躍した時代であったが、大会社がハリウッドを支配する準備は着々と行われていた。 1914年頃にはニューヨークに豪華なバイタグラフ劇場や、座席数3,000で赤絨毯を敷きつめた宮殿のように豪華なストランド劇場がで…

 チャップリンの映画製作への情熱と移籍

チャップリンはキーストン時代から映画製作について自ら進んで学んでいったようだ。マック・セネットは当時のチャップリンについて次のように語っている。「毎晩遅くまで働いて倦むことを知らない男はチャップリンにきまっていた。自分が働く時はもちろんだ…

 チャールズ・チャップリンの映画デビュー

マック・セネット率いるキーストン社から、今でも圧倒的な知名度で映画史に名を刻んでいる1人の人物の映画が公開されている。それは、チャールズ・チャップリンである。 ここに、おもしろい話がある。セネットは舞台で老人役を演じているチャップリンをスカ…

 マック・セネットのキーストン社

ジョルジュ・サドゥールが高く評価している3人の映画人の残りの1人であるマック・セネットは、この年もキーストン社で喜劇を製作していた。 これまで自身も時折出演していたが、この頃には出演するのをやめて(セネットの演技は評判が悪かった)、プロデュ…

 D・W・グリフィスの新天地での映画製作

ジョルジュ・サドゥールが、トマス・H・インスやマック・セネットと並び、高く評価しているD・W・グリフィスは、この年からそれまでのバイオグラフ社ではなく、移籍先のミューチュアル社での映画製作を開始している。 リリアン・ギッシュ主演の「性の戦い…

 トマス・H・インスと早川雪洲とハリウッド

プロデューサーシステムを確立したといわれるトマス・H・インスは、大スターとなるウィリアム・S・ハートを前年に見出したが、この年には早川雪洲を見出している。 早川は、サンフランシスコで「颱風」の舞台を妻の青木鶴子と出演しているところをインスに…