2008-04-01から1ヶ月間の記事一覧

 フランス映画 ジャック・フェデーのデビュー

後に「女だけの都」(1935)などでフランスを代表する映画監督のひとりとなるジャック・フェデーは、舞台の俳優から映画俳優となり活躍していた。そんなフェデーは、ゴーモン社で監督をしていたガストン・ラヴェルが、出征する際に後任にフェデーを推薦し…

 フランス映画 アベル・ガンスの活躍

前年(1915年)から映画監督・脚本家としての活躍を見せていたアベル・ガンスはこの年も活躍している。 「生きる権利」(1916)は、証券取引所を舞台にした大メロドラマであり、極端なストーリーとなっているという。技術的にも、透けて見える影の照…

 フランス映画 第一次大戦の影響とアンドレ・アントワーヌ

第一次大戦の戦場となったフランスでは、戦場に赴いての撮影が行われるようになっていた。アベル・ガンス、マルセル・レルビエ、レオン・ポワリエといった劇映画の監督たちが軍の映画班に従事した。1916年からは、より戦場に近い部分を撮影できるようになり…

 イタリア映画 その他 1916年

ディーヴァが君臨する一方で、未来派映画という新しい動きもあったイタリアでは他にも様々な動きがあった。 イタリア芸術映画社(FAI)の製作担当だったウーゴ・ファレーナが去り、FAIは方向性を失ったと言われている。また、監督のジェンナーロ・リゲ…

 イタリア映画 「未来派映画宣言」

当時のイタリアでは、詩人フィリッポ・トンマーゾ・マリネッティが提唱した未来派と呼ばれた芸術運動が起こっていた。そのマリネッティが9月に「未来派映画宣言」を出している。異なる時空の同時性と浸透性、音楽的探求、対象のドラマなどで映画を解放すべ…

 イタリア映画 ディーヴァの隆盛とイタリア映画の衰退

「ディーヴァ」への依存から、イタリア映画はスター主義となったと言われている。監督がスターの助手や、従順な実行者となっていった。ディーヴァをコントロールできなくなったプロデューサーのせいもあると言われている。バルダッサレ・ネグローニ伯爵が妻…

 イタリア映画の作品群 1916年

イタリアでは、ファウスト・サルヴァトーリの詩「苦悩の歌」を題材とした史劇である「クリスタス」(1916)が、興行的に成功を収めたといわれているが、スペクタクル映画は、戦争による物資の不足から数が減っていった。 「火」3部作(1916)は「カ…

 その他のアメリカ映画 1916年

ユニヴァーサルは、海中撮影を行った「20,000 LEAGUES UNDER THE SEA(海底六万哩)」を製作している。 また、戦争を中心とした報道映画カメラマンのドナルド・C・トンプソンによる22分のドキュメンタリー「FIGHTING THE WAR」(1916)が作られている…

 ピックフォード、早川雪洲・・・ビッグ・スターたちの動き

メアリー・ピックフォードはフェイマス・プレイヤーズ=ラスキー傘下のアートクラフト社の映画に出演した。アートクラフト社は、ピックフォード作品専門の配給会社だったが、後に他の俳優の作品も配給するようになる。 1915年に「チート」で大スターの仲間…

 “水着美人”アネット・ケラーマン

この年の話題作の1つに「神々の娘」(1916)がある。話題になった理由は、水着美人と言われたアネット・ケラーマンが出演していたからだ。ケラーマンはオーストリア出身で、小児麻痺を水泳で克服した過去を持っており、テムズ川の40キロ遠泳に成功し…

 ダグラス・フェアバンクスとオー・ヘンリエット

1915年から人気を得ていたダグラス・フェアバンクスは、D・W・グリフィス監修の作品に出演していた。「ドーグラスの好奇」(1916)は西部からやってきたカウボーイが美しい娘の歓心を買うために奮闘する物語で、成功を収めたという。ジョン・エマー…

 コメディの世界 1916年

ちなみに、チャップリンを失ったエッサネイ社は、フランスの人気映画喜劇俳優のマックス・ランデーを1916年暮に呼び寄せている。ランデーは3本の映画を撮影したが、1917年の初めに胸膜炎となり、11月にスイスのサナトリウムに入ることになる。1…

 ロスコー・アーバックルがキーストン社から移籍

キーストン社で喜劇役者として人気を集めていたファッティ・アーバックルは、キーストン社を指揮するマック・セネットとギャラの面で折り合わなくなり、1916年にジョゼフ・スケンクの元に移籍している。週給7,000ドル+利益の25%という好条件で、…

 ミューチュアル時代のチャップリン

チャールズ・チャップリンはミューチュアル社の移籍によって、一棟のスタジオが自由になり、チャップリン作品製作のために設立された会社ローン・スターの名前がスタジオにつけられた。かなり立派なセットを組むことができるようになり、セットや小道具を生…

 チャップリンがエッサネイからミューチュアルへ移籍

チャールズ・チャップリンはエッサネイ社に所属していた時代に人気をさらに高めたものの、エッサネイ社との関係は必ずしも良好とは言えなかった。 「珍カルメン」(1916)は、セシル・B・デミルが監督した映画のパロディである。2巻物として製作したが…

 アドルフ・ズーカーとサミュエル・ゴールドウィンの野望

1916年にアドルフ・ズーカーの「フェイマス・プレイヤーズ」と、ジェシー・ラスキーの「ラスキー・フィーチャー・プレイ」という2つの映画製作会社が統合し、「フェイマス・プレイヤーズ=ラスキー」が設立されている。 「フェイマス・プレイヤーズ」「…

 その他のアメリカにおける戦争映画

反戦的な映画は他にも作られている。 はルイス・J・セルズニックが1915年に設立した会社ワールド・フィルムでは、ハーバート・ブレノンが演出した「戦時花嫁」(1916)が作られている。ロシア出身の大女優アラ・ナジモヴァを1日千ドルでセルズニッ…

 トマス・H・インスの「シヴィリゼーション」

当時のアメリカでは、戦争についての映画が多く作られていた。「イントレランス」もそんな映画の1本と言えるが、トマス・H・インスは「シヴィライゼーション」を監督し、より直接的に戦争へ反対する姿勢を見せている。だが、イギリスやフランスの公開では…

 「イントレランス」とはいったい何だったのか?

「イントレランス」(1916)は、1人の映画製作者が自らの考えを巨大な規模で表現しようとした映画だ。だが、この頃になると映画は1人の人間が経済的な面から内容まですべてをコントロールするには大きくなりすぎていた。ジョルジュ・メリエスから連な…

 「イントレランス」の興行的失敗の残滓

グリフィスが監修を担当していたトライアングル社は「イントレランス」の失敗もあって整理されることとなり、1917年6月にすべての製作を停止している。トライアングル社の大監督や俳優たちはパラマウント=アートクラフトに移籍した。 サンセット大通り…

 「イントレランス」の公開と興行的失敗

1916年9月5日の「イントレランス」公開に際しては、新聞に大々的に広告が掲載され、ニューヨークのリバティ劇場には各界の名士が集まり、劇場は何千人というファンに取り囲まれた。最初の4週間は同劇場の持つ「国民の創生」(1915)の記録を破っ…

 短縮された「イントレランス」

D・W・グリフィス渾身の「イントレランス」(1916)の完成版は8時間を越え、グリフィスは2部に分けて2夜連続上映しようとしたが、興行主の反対にあい、2時間半に短縮されることになった。 リリアン・ギッシュは短縮するべきではなかったと主張して…

 「イントレランス」に込めたグリフィスのメッセージ

D・W・グリフィスが「イントレランス」(1916)で訴えたかったのは、人間の「不寛容(イントレランス)」についてだった。この「不寛容」は、「国民の創生」(1915)公開時に浴びせられた反対運動や上映中止運動に対するものでもあったが、一方で…

 「イントレランス」の革新的話法

「イントレランス」の、時間的にも空間的にもかけ離れた4つの物語が同時に展開されるというスタイルは革新的だった。グリフィスはこのスタイルについて自ら次のように語っている。「様々な物語は山の頂から見下ろした四つの流れのように始まる。最初、四つ…

 「イントレランス」の撮影

「イントレランス」(1916)における、巨大なセットを使った撮影はスケールの大きいものとなった。群集シーンの撮影のために、当初は気球にカメラを据え付けて撮影したがうまくいかないので、ロープで上下できるエレベーターにカメラを据え付け、レールに…