2009-04-01から1ヶ月間の記事一覧

 映画評「大疑問」

原題「THE GREATEST QUESTION」 製作国アメリカ ファースト・ナショナル・ピクチャーズ製作・配給 監督・製作D・W・グリフィス 撮影ビリー・ビッツァー 出演リリアン・ギッシュ ロバート・ハロン 幼い頃に殺人を目撃した記憶を持つネリーは、両親を失った後…

 映画評「散り行く花」

原題「BROKEN BLOSSOMS」 製作国アメリカ D・W・グリフィス・プロダクションズ、パラマウント・ピクチャーズ製作 ユナイテッド・アーティスツ配給 製作・監督・脚本D・W・グリフィス 出演リリアン・ギッシュ リチャード・バーセルメス D・W・グリフィスは「…

 ユナイテッド・アーティスツ そこにあるのは自惚れか?映画への夢か?

それは、自惚れだったかもしれない。それは、驕りだったかもしれない。 1919年、チャールズ・チャップリン、メアリー・ピックフォード、ダグラス・フェアバンクス、D・W・グリフィスという映画界の巨人4人が配給会社ユナイテッド・アーティスツを設立した…

 失われた技法 染色と着色

今では死語だろうと思われるが、一昔前の映画のポスターやチラシをには、「総天然色」という文字を見ることができる。私は昔からこう思っていた。別に「カラー」と書けばいいじゃないかと。その理由が、サイレント映画を見ていてわかった。それは、「総天然…

 クロース・アップ 愛すべきサイレント映画最大の武器

クロース・アップ(大写し)。映画草創期においては、クロース・アップこそが映画最大の武器であるとまで言われた技法である。文字通り、顔であったり、手であったり、物であったりといった特定のものを、スクリーンに大きく写すのが、クロース・アップである。…

 その他の日本映画界 1919年−大正8年

1919年8月15日、京都・新京極が劇場や映画館を「睦み日」として無料開放している。これは、松竹が主唱し、五条興行会が協力して行われたものだ。当時人々は、物価高などに不満を持っており、そういった不満を晴らしてもらおうというものだった。 現在…

 日本 輸入映画 1919年−大正8年

この年、日本で公開された主な映画には次のような作品がある。 「桜子」「ロミオとジュリエット」「犬の生活」「お雪さん」「ウーマン」「舞姫タイス」(アメリカ) 「王家の虎」「十字軍」「トスカ」「復活」(イタリア)、「呪の滝」「紅燈の影」(フラン…

 日本 大手映画会社以外の作品 1919年

大手の映画会社に所属していない人々の作品も製作されている。 人気のあった映画説明者が、自らの理想を映画製作で実現して見せた作品が作られている。古い説明者の中島常誠が本名の石塚忠利の名で製作した「国難」(1919年)がそれである。 1906年…

 日本 天活の日暮里撮影所設立と国活の設立

天活は、大阪の新派映画が時代離れしていたため、東京の日暮里で新派を撮影することを決定して、撮影所を作っていた。新派劇団を雇い入れるが、1919年に全焼してしまっている。 かつて天活に所属し、独立して小林商会を設立も失敗していた小林喜三郎は、…

 日本 天活における枝正義郎の挑戦

帰山教正に映画製作のチャンスを与えた天活は、1919年に枝正義郎監督に「哀の曲」の製作を許可している。 枝正は、少年時代から吉沢商店の目黒撮影所で千葉吉蔵の指導を受け、カメラ技巧を持っていた。枝正が撮影した天活の旧劇は、他社の作品と比べて、…

 日本 牧野省三が教育映画制作会社「ミカド商会」設立

日活において時代劇を監督していた牧野省三は、子供の教育上役に立つ作品を撮りたいとかねてから考えていた。牧野は日活に辞表を出し続けていたが、ようやく受け入れられ、1919年にミカド商会という教育映画プロダクションを設立している。ただし、日活…

 日本 日活における日本映画革新運動

日活においては、日本映画革新運動を進めていた田中栄三が、「己が罪」(1919)を監督している。陰ゼリフをやめ、スポークン・タイトルを入れ、ショットを細かく割った作品だったが、全国の映画館の陰ゼリフ屋から日活に抗議が寄せられたという。 またこ…

 日本 「生の輝き」「深山の乙女」の公開と評価

弁士の説明が必要なかった「生の輝き」「深山の乙女」は、当時の映画興行に大きな力を持っていた弁士たちの反対を心配した営業部の判断で公開は1年半遅れてしまった。また、映画の完成度はあまり高くなかったとも言われているが、ジャーナリストたちは試み…

 日本 帰山教正の革新運動の成果 「生の輝き」「深山の乙女」

前年、「活動写真劇の創作と撮影法」という著作を出版して、映画人に影響を与えた帰山教正は、天活と提携して映画製作会社の映画芸術協会を設立し、「生の輝き」「深山の乙女」(1919)を監督している。 弁士のいらない映画、せめて一人の弁士が解説する…

 第一次世界大戦 映画と戦争の出会い

第一次大戦は、1914年から5年にわたる戦闘の末、900万人以上の兵士の戦死者を出した戦争である。 1895年に誕生したとされる映画にとって、第一次大戦は初めての戦争ではなかった。例えば1898年にアメリカとスペインの間で起こった戦争に映画…

 日活の独占が成立しなかった理由

現在でも名を残す映画会社である日活は、1912年に設立された会社が元となっている。設立当時の正式社名は日本活動写真株式会社であり、その略称が日活であった。 日活は、当時の日本映画の四大会社であった横田商店、吉沢商会、エム・パテー商会、福宝堂…

 ディーヴァはなぜイタリア映画を衰退させたか?

「ディーヴァ」とは女神と言う意味を持つ言葉であるが、ここでは主に1910年代後半のイタリア映画界を支配したと言われる、女優たちのことを指す「ディーヴァ」について書きたい。 イタリアにおけるディーヴァは、1913年頃に誕生したと言われる。「さ…

 その他の国々 1919年

中国では、アメリカのユニヴァーサルが中国ロケに訪れた際に、中国の出版社であり、映画製作会社でもあった商務印書館に協力を求めている。撮影後、ユニヴァーサルは機材を商務印書館に譲り渡したという。商務はスタジオも建設し、人気のあった京劇の女形メ…

 朝鮮映画 キム・ドゥサンの連鎖劇

1919年10月27日、俳優キム・ドゥサンが、自身主演の連鎖劇「義理的仇闘」を上演している。連鎖劇とは、舞台と映画を融合させたものである。1918年に、日本の巡回新派劇団が、京城の公演で連鎖劇を上演したのに影響を受けて作られたと言われてい…

 衰退から脱却できないイギリス映画

イギリス映画は相変わらず衰退したままだった。 そんな中、古参の映画製作者であるセシル・ヘップワースは、アルマ・テイラー主演の「丘の上の森」(1919)や、ロナルド・コールマンが小さな役で出演した「シーバ」(1919)を製作している。 一方で…