1911

 D・W・グリフィスの作品 1911年(1)

「HIS TRUST(彼の信頼)(彼の責務)」 D・W・グリフィス監督作品。バイオグラフ社製作。 南北戦争を背景に、一家の大黒柱を失った南部の母娘と一家に仕える黒人の召使いを描く。 南北戦争と黒人とくると、後の「国民の創生」(1915)を思い出させる…

 日本初の南極を撮影した映画

1910年(明治43年)から、白瀬中尉を隊長とする南極探検隊が南極へと向かっていたが、1911年(明治44年)に、エム・パテー商会が撮影技師の田泉保直を南極へ派遣し、南極の撮影を行い、翌年公開されることとなる。(映画本紹介)日本映画発達史 …

 日本における「ジゴマ」公開騒動

1911年は、1本の映画が社会現象に発展した年としても記録されている。11月に公開された「ジゴマ」(1911)がそれである。フランスのエクレール社が製作したこの犯罪映画は、金竜館で上映され、大ヒットした。1912年5月には続編も公開され、…

 日本 映画会社が専属俳優制度へ

映画の人気が高まり、映画館はそれまで劇場に舞台を見に来ていた観客を奪っていった。そのことを舞台側の人たちが快く思うわけがなく、東京劇場組合は映画に出演した俳優は使わないことを決議した。 それまで、映画製作においては、1本ごとに俳優と契約して…

 日本 日活設立への道−吉沢商店のルナ・パーク消失

老舗の映画会社である吉沢商店はこの都市、1910年に浅草にオープンしたルナパークを火災で失い、大きなダメージを受けている。吉沢商店は、1911年に大阪の劇場も火災で失い再起不能に近いダメージを受ける。このことが、後に日本初の映画会社のトラ…

 日本興行株式会社−日本映画界初の株式会社

1911年には、日本映画界初の株式会社が設立されている。尾上松之助映画の興行館である浅草富士館の経営母体だった日本興行株式会社がそれである。他の映画館を買収したり、新富士館を落成したりと成長していった。また、この会社の役員には横田商会の横…

 日本 福宝堂の日暮里撮影所

1910年に発足し、映画製作も行っていた福宝堂は、日暮里の撮影所を拡張している。拡張と言っても、土間を板敷きにしたり、天幕を張ったりといったものにすぎなかった。 この頃の映画撮影について「日本映画発達史」の中で田中純一郎は次のように厳しく語…

 その他の国の状況

中国においては、1909年にアメリカ人の手で設立された映画製作会社である亜細亜影戯公司が、この年勃発した辛亥革命の影響で経営に失敗、アメリカ資本の生命保険会社である上海南洋人寿保険公司に売却されている。このとき同社の顧問に就任したチャン・…

 ドイツの映画製作

ドイツではこの年、オスカー・メスターは支社のアウトーレン・フィルムによって「文芸シリーズ」を製作させた。また、ヘンニー・ポルテンの人気に目をつけたデンマークのノーディスク社が引き抜こうとしたが、失敗に終わっている。 この頃には、ドイツ映画は…

 イギリスの映画製作

イギリスでは映画興行が発展を見せていた。1911年には2〜3,000の映画館が存在していたといわれている。1914年には3,500〜4,500となり、この数は1950年と同水準で、ヨーロッパの映画興行の筆頭にあったという。イギリスは工業化…

 ロシアの映画製作

ロシアでは、トルストイを撮影したフィルムを公開するなどの活動を行っていたドランコフが、演出作品の製作を放棄し、ニュース映画へと向かった。また、ロシアで映画を製作していたフランスのゴーモン社も、この年ロシアでの劇映画の製作を中止している。 ロ…

 デンマークの映画製作

デンマークでは、ノーディスク社が久しく映画製作の中心となっていたが、この年キノグラーフェン社という映画製作会社がノーディスク社の演出家であるアルフレズ・リンと俳優のロバート・ディネセンを引き抜き、大作「四人の悪魔」(1911)の製作に乗り…

 イタリア映画の栄光

イタリアは、順調に映画を製作していた。 文芸映画の分野以外では喜劇が順調だった。アクィラ社による、アルマンド・ジェルソミーニ出演のジョリクールのシリーズ、チネス社によるフランスの道化師フェルディネン・ギヨームが演じる「トントリーニ」シリーズ…

 失敗に終わったジョルジュ・メリエスの復活

トリック映画、夢幻劇で1900年代の前半には頂点を極めたジョルジュ・メリエスは、この頃には映画製作をほとんど行っていないに等しい状態だった。そんなメリエスに、パテ社が映画製作を依頼する。当時、人気を得ていた喜劇スターであったマックス・ラン…

 フランス 連続映画の流行

1908年にも流行した連続映画(ヴィクトラン・ジャッセの「探偵王ニック・カーター」、デンマークのノーディスク社の「ラッフルズの脱獄」など。2,3本の連続ものだった)だが、この年、再流行している。 エクリプス社は「ナット・ピンカートン」シリー…

 フランス 喜劇映画

文芸映画はあまり成功していなかったフランスだったが、喜劇映画が好調だった。 マックス・ランデーは「キナ入り葡萄酒の犠牲者マクス」(1911)を自らの脚本により製作しており、傑作ととも言われている。ちなみに、ジョルジュ・サドゥールは「世界映画…

 フランス 猛獣映画

ゴーモン社のルイ・フイヤードは<ありのままの人生シリーズ>のほかにも、猛獣映画を製作していた。この分野では、ジャン・デュランも活躍した。「キリスト教徒をライオンに」(1911)はフイヤードの作品であり、俳優はライオンに襲われ重傷を負ったと…

 フランス ありのままの人生

フィルム・ダール社の破綻と共に、文芸映画は下火となっていった。ゴーモン社は文芸映画に代わって、 <ありのままの人生シリーズ>をこの年から売り出した。中心人物は、ルイ・フイヤードで、アメリカのヴァイタグラフ社の作品を参考にしつつ、フランスの自…

 フランス フィルム・ダールの破綻

1908年に「ギーズ公の暗殺」によって、文芸映画製作ブームの口火を切ったフィルム・ダール社は、ガヴォーが経営を行っていたが、結局多額の損失を出して退陣している。フィルム・ダール社の事業はフランスの配給会社のモノフィルム社が引き継いでいる。 …

 トマス・H・インスの胎動

トマス・H・インスは、ロサンゼルスでカウボーイ映画を得意とするバイソン社の経営を任され、バッファロー・ビルの伝統に従ったカウボーイ・サーカスを雇い、「バイソン101社」を設立している。1911年10月には、二巻物(30分程度)の西部劇「大…

 独立系映画会社による引き抜き合戦

人材確保による引き抜き合戦は、独立系の映画製作会社同士でも行われるようになった。 ハリー・E・エイトケンとジョン・R・フロイラーによって設立されたマジェスティック社は、昨年(1910年)にカール・レムリのIMP社が引き抜いたばかりのメアリー…

 バイオグラフ社におけるD・W・グリフィスの活躍

グリフィスはこの年、「女の叫び」(1911)という作品を製作している。この作品では、通常のカット・バックに加え、短い意味のあるショット(機関車の煙突、汽笛、車輪など)が映し出されてエモーション(感情)を生み出しすように工夫されていた。また…

 MPPC側の映画製作

MPPC側では、ルービン社はメロドラマ、劇、喜劇などを製作していた。シーリグ社は猛獣映画製作のために、この年の夏に、100頭以上の動物を擁する自前の動物園を設立している(ほとんどがライオンだった)。エジソン社では、1911年から12年にか…

 続くMPPCと独立系の映画製作会社の対立(3)

MPPC側の映画製作会社たちは、独立系の映画会社ほど質的にも量的にも大衆を満足させることができなかった。 そんな状況に加えて、社会的な状況も独立系側に動いていた。1911年秋、配給業者だったウィリアム・フォックスはジェネラル・フィルム社との…

 続くMPPCと独立系の映画製作会社の対立(2)

当時の状況を、ジョルジュ・サドゥールは次のように語っている。「1910年に映画は単純な動く写真の域を脱していた。大衆はすでにお好みの主題や俳優を持っており、その製作会社のマークよりも映画の題名で上映番組を選択した。ヴァイタグラフ社を除いて…

 続くMPPCと独立系の映画製作会社の対立(1)

アメリカではMPPCが独立系の映画会社に押されていた。1911年には、トラスト側が40万メートルの映画を製作していたのに対し、独立系は30万メートルの映画を製作していたという。 MPPC側にとっては、大きな打撃となる出来事もこの年にあった。…