1913

 D・W・グリフィスの作品 1913年(2)

「THE HOUSE OF DARKNESS」 D・W・グリフィス監督作品。バイオグラフ社製作。ジェネラル・フィルム配給。 とある精神病院から1人の初老の患者が逃げ出す。興奮した患者はピストルを手に入れ、とある家に押し入り、そこに住む女性を脅す。しかし、偶然から…

 D・W・グリフィスの作品 1913年(1)

「THE MASSACRE(大虐殺)」 D・W・グリフィス監督作品。バイオグラフ社製作。ジェネラル・フィルム社配給 ネイティブ・アメリカンの村を襲う白人の軍隊。ネイティブ・アメリカンたちは復讐を決意し、西部へ向かう白人たちのワゴンを襲う。 西部劇の形式で、…

 エッサネイ社 「ブロンコ・ビリー」シリーズの作品 1913年

「THE MAKING OF BRONCHO BILLY」 エッサネイ社製作。ジェネラル・フィルム社配給。G・M・アンダーソン製作・監督・脚本・主演。 G・M・アンダーソンが主演して大人気を呼んだブロンコ・ビリー・シリーズの1つ。 西部の街にやってきたビリーは荒くれ者…

 ヴァイタグラフ社の作品 1913年

「THE COURAGE OF THE COMMONPLACE」 家事と農場での仕事の手伝いに忙しい農場の長女は、大学に通いたいと思い金を溜めている。ようやく大学に行ける時が近づいてくるも馬が病気になってしまい、家族は経済的に追い込まれる。長女は大学を諦め、学費に溜めて…

 ユニヴァーサルの作品 1913年

「ON TO WASHINGTON」 女性参政権の女性運動家たちがニューアークからワシントンへ行進した様子を撮影したニュース映像。

 ネスター・フィルム・カンパニーの作品 1913年

「THE GIRL RANCHERS」 製作国アメリカ ネスター・フィルム・カンパニー製作 ユニヴァーサル・フィルム・マニュファクチュアリング・カンパニー 監督アル・クリスティ 製作デイヴィッド・ホーズリー 出演リー・モラン、ステラ・アダムス、マリー・ウォールキ…

 THANHOUSER社の作品 1913年

「THE EVIDENCE OF THE FILM」 THANHOUSER製作 ミューチュアル・フィルム社配給 ある株のブローカーの男が、借金を催促する知人に対して、策を練る。男は使用人に札束の入った封筒を見せておきながら、メッセンジャー・ボーイが運んでいる途中にわざとぶつか…

 エジソン社の作品 1913年(4)

「ALL ON ACCOUNT OF A TRANSFER」 エジソン社製作、ジェネラル・フィルム社配給。 C.Jay.Williams監督作。 ドイツからニューヨークへやってきた男性は道が分からず、駅員から目的地が同じ1人の女性の後をつけていけばよいと言われる。その通りにするドイツ…

 エジソン社の作品 1913年(3)

「A SERENADE BY PROXY」 エジソン社製作、ジェネラル・フィルム社配給。 C.Jay.Williams監督。 恋人トーマスとの仲を父親によって裂かれたマリエルは、女中と牛乳屋の恋を応援し、駆け落ちを進める。駆け落ちの日、トーマスは駆け落ちの現場を泥棒と勘違い…

 エジソン社の作品 1913年(2)

「THE AMBASSADOR’S DAUGHTER」 エジソン社製作、ジェネラル・フィルム社配給。Charles Brabin監督。 大使に送られたてた重要な文書を、スパイが盗み出す。大使の娘はスパイの後を追い、文書を取り戻す。 文書の内容は関係ない。アルフレッド・ヒッチコック…

 エジソン社の作品 1913年(1)

「AT BEAR TRACK GULCH」 エジソン社製作、ジェネラル・フィルム社配給。Harold M. Shaw監督作。 舞台は西部。東部からやってきた若い女性のアリスにいろいろと世話をしてあげるジャック。アリスには東部に恋人がいるのだと思い込んでいるジャックは、アリス…

 日本 輸入映画 1913年

この頃は、イタリアの史劇やヨーロッパの文芸作などが、輸入映画の中では人気を呼んでいた。主な輸入作品は次の通り。(イタリア) 「ファザー」「セビリアの理髪師」「サタン」「フィガロの婚礼」「クオ・ヴァディス」 (フランス) 「椿姫」 (イギリス) …

 日本 帰山教正と雑誌「キネマレコード」

後に映画監督として活躍する帰山教正がこの年、映画雑誌「フィルムレコード」を創刊している。内容は新作映画の批評や技術解説だった。後に「キネマレコード」と名称を変えて、1917年まで発行されることになる。 (映画本紹介) 日本映画の誕生 〜講座日…

 日本 小林喜三郎によるキネマカラー映画の興行

この年、日活を退社して常盤商会を設立していた小林喜三郎は、浅草キリン館でキネマカラーの興行を行っている。キネマカラーはイギリスのジョージ・アルバート・スミスが発明したもので、数本の短編が上映されている。キネマカラーは色彩を赤と緑に分類し、…

 日本 小映画界社の設立

日活の内紛の隙をつくように、様々な映画会社が設立され、日本の映画界は日活設立前のように、小映画会社が分立する様相を呈していた。 東洋商会は、福宝堂から日活の大阪支店に入ったが退社した山川吉太郎が起こした。吉沢商店にいた千葉吉蔵、小西亮の2人…

 日本 日活の内紛

向島撮影所が建設された日活だが、内紛が耐えなかった。吉沢派と横田派は暗闘を繰り返し、暗闘の激化を嫌う吉沢派が独立した。また、福宝堂系も独立し、一部エム・パテー系が残り、横田系が覇権を握っていった。このような内部分裂により重役陣が総辞職して…

 日本 日活向島撮影所の建設

前年(1912年)に誕生した日活は、当初吉沢商店の目黒撮影所と、横田商会の京都撮影所をそのまま使用していたが、能率的ではなかったため、新しく東京府下南葛飾郡隅田村の日活向島撮影所が建設されている。奥行9間、間口11間で太陽光線で撮影するため…

 映画への規制、検閲 1913年

映画の人気が高まり、人々の生活に密着していくのに比例して、各国では様々な形で映画への規制や検閲が行われるようになった。 イギリスではこの年、映画検閲委員会が発足し、映画を一般向けと成人向けに分けて公開するようになった。また、フランスでも最近…

 中国 チャン・シーチュアンとチョン・チョンチュウ

中国では、映画会社である亜細亜影戯公司の顧問だったチャン・シーチュアンが、演劇評論家のチョン・チョンチュウに協力を求め、新民公司を設立し、撮影を行った。亜細亜影戯公司が配給・興行を担当した。 新民公司は、1913年より製作を開始し、中国初の…

 インド初の映画

インドではこの年、最初のインド映画「ハリシュチャンドラ王」(ダンディラジ・ゴヴィンド・ファールケー監督)が製作し、熱狂的に受け入れられたといわれている。ファールケーは続いてインドの宗教伝説に材を求めた映画を製作し、1913年から18年にか…

 1913年のドイツ映画と「プラーグの大学生」

1912年にトラストの実現が失敗に終わったドイツでは、分散状態で各社で映画製作が行われていた。 D・K・G社(デーカーゲー社)は、フランスのゴーモン社から若い女優を引き抜いた。演出にもフランス人が多く、フランスでも撮影されたという。 P・A…

 ロシア映画 1913年

ロシアでは、映画の製作本数が増え、1909年には10数本程度だったが、1913年には130本に及ぶ作品が製作されたという。 ハンジョンコフ社では、社交界ドラマ「幸福の鍵」(1913)が成功した。「幸福の鍵」の監督ヤーコブ・プロタザーノフやエ…

 デンマーク映画、スウェーデン映画 1913年

世界的に人気を得ていたデンマークでは、「アトランチス」(1913)が製作されている。 当時の著名な劇作家ゲルハルト・ハウプトマンの小説を映画化し、アウグスト・ブロムが演出を担当した。アメリカにロケを行ったこともあり、制作費は50万マルクかか…

 イギリスの文芸映画

停滞していたと言われるイギリス映画は、1913年に多くの文芸映画を生み出している。 「アイヴァンホー」(1913)は、芝居をそのまま撮影したものだったが、ブリティッシュ・アンド・コロニアル・キネマトグラフ社が製作した「ワーテルローの戦い」(…

 イタリア ディーヴァの誕生

イタリアでは史劇が多く製作される一方で、現代的な作品も多く作られた。イタリアの現代劇映画は三角関係の中で展開されることが多かった。その現代的な作品は女優の人気によって成り立っていた。彼女たちは、「ディーヴァ(女神)」と呼ばれるようになって…

 イタリア 第二の「クォ・ヴァヂス」

イタリアでは1912年に製作され、世界的に大ヒットした「クォ・ヴァヂス」に続けと、大作映画が多く作られたが、「クォ・ヴァヂス」の成功には及ばなかった。 「ポンペイ最後の日」(1913)の再映画化は競作となった。アンブロージオ社は、1913年初…

 フランスの連続映画 「ファントマ」「プロテア」

この年、アメリカでは連続映画「キャスリンの冒険」が人気を得ていたが、連続映画の草分け的存在である「ジゴマ」を生み出したフランスでも連続映画が製作され人気を得ている。 ゴーモン社のルイ・フイヤードが監督した「ファントマ」(1913〜1914)…

 フランス 喜劇映画と「人民の映画」

フランス喜劇を支えていたマックス・ランデーは1913年には、「マックスとピアノ」「闘牛士マックス」といった作品を製作している。だが、ランデーの仕事はやっつけ仕事となり、同じ人物を繰り返し演じていたと言われている。 パテ社が喜劇製作のために設…

 ジョルジュ・メリエス 最後の映画製作

「月世界旅行」(1902)から11年、かつて映画製作のトップに君臨していたジョルジュ・メリエスは1913年に最後の作品を製作することになる。パテ社の援助によって作られた「雪の騎士」(1913)、「ブーリション家の旅行」(1913)の2作がそ…

 ニッケルオデオンの衰退

労働者階級にとっての映画常設館として、映画草創期に映画産業確立の立役者となったニッケルオデオンは、この頃には姿を消したとも言われる。そして、入場券を扱う「ボックス・オフィス」という言葉のみが、現在でも使われている。 そんなニッケルオデオンの…