1926

時代劇の新傾向 幕末チャンバラ映画ブーム

1926年から幕末の勤皇佐幕抗争を描いたチャンバラ映画ブームが起こっている。1926年には「尊王」「幕末」「乱闘の港」が阪東妻三郎プロで、「義に鳴る虎徹」「月形半平太」「修羅王」が日活で作られている。流行は太平洋戦争敗戦まで続き、坂本竜馬…

日本映画最初のスター 尾上松之助の死去

伊藤大輔と大河内傳次郎がコンビを組んだこの年、世代交代を象徴する出来事が起こる。1926年9月11日、日本映画最初のスター、尾上松之助が死去したのだ。51歳だった。「侠骨三日月」(1926)の撮影中に心筋梗塞で倒れたのだった。日活は松之助…

日活 伊藤大輔・大河内傳次郎の伝説的コンビの誕生

流浪の監督生活を続けていた伊藤大輔は、直木三十五の連合映画芸術家協会から依頼され、奈良に伊藤映画研究所を設立して映画製作を行った。菊池寛の「第二の接吻」を原作とする「京子と倭文子」(1926)や、「日輪」(1926)を監督したが、資金難で…

日活の活劇映画 1926年

日活は活劇スターとして活躍した鈴木伝明が1925年に松竹に移籍してしまっていたが、新しい役者たちが活躍をしていた。浅岡信夫、広瀬恒美、大久保謙治らを起用した、上海や台湾でロケをされた活劇映画が作られたという。監督には村田実、溝口健二、阿部…

「狂恋の女師匠」と怪談映画の系譜

溝口健二監督、酒井米子主演の「狂恋の女師匠」(1926)は、川口松太郎が三遊亭円朝作「真景色累ヶ淵」を脚色した作品である。本作は、怪談の系譜としても語られるべき作品でもある。 日本の怪談映画は、歌舞伎・講談・落語・民間伝承に突き当たり、日本…

日活 女優の活躍 酒井米子

現代劇で活況を見せ始めた日活では、女優の活躍が目立って来ていた。 日活は、梅村蓉子を松竹から引き抜いたが、日活が育てた女優も活躍していた。酒井米子はその1人である。1920年に日活が初めて女優を採用したときは芸者で、それ以前は新劇女優だった…

日活 溝口健二の「紙人形春の囁き」「金」

阿部豊と同じく日活に所属して監督をしていた溝口健二も、岡田時彦を巧みに使った。だが、アメリカナイズされた役ではなく、純日本的な情緒的な世界で、梅村蓉子と組み合わせて使ったという。 「紙人形春の囁き」(1926)は田中栄三が脚本を担当した作品…

ルビッチ・タッチの日本映画への影響

阿部は、ハリウッドで役者として活躍していたころ、セシル・B・デミルと一緒に仕事をしており、阿部の洒落て小粋な風俗映画作家ぶりは、デミルの影響を受けていたという。だが、当時の日本の批評家は阿部の作風をエルンスト・ルビッチ風と見たという。それ…

岡田時彦 アメリカニズムを体現した男

阿部豊監督の「足にさわった女」(1926)に主演したのは、岡田時彦である。また、阿部豊が監督して和と洋の過渡期の時代の風俗描写に成功と言われる、各社競作となった「京子と倭文子」(1926)のにも岡田は主演している(菊池寛の「第二の接吻」が…

日活 森岩雄と金曜会の発足

「足にさわった女」の脚本を書いた益田甫は、森岩雄が日活の企画部内で主宰したグループである金曜会に所属していた。原作・脚本を担当した「街の手品師」(1925)を携えての渡欧から帰国した森は、日活で相談役的な立場で活動をしていた。その一方で、…

阿部豊の活躍 日活現代劇にアメリカニズムを直輸入した男

日活では1925年春に役者として活躍していたハリウッドから帰国した阿部豊が入社して、デビュー作「母校の為めに」(1925)以降は現代劇の監督として活躍していた。阿部が作った現代劇は、アメリカニズムを直輸入した作品として評判になる。 梅村蓉子…

中国、オランダ、北欧映画 1926年

中国では1925年には、175社もの映画会社が存在したと言われる。しかし、粗製乱造が進み、製作される映画の質は低下した。その結果、映画会社の淘汰が行われ、1925年には131社あったという上海の映画会社は1926年末には40近くにまで激減…

朝鮮 抗日精神を描いた傑作「アリラン」

初期の朝鮮映画は古典小説原作のメロドラマや新派などの演劇の映画化がほとんどだった。娯楽的傾向が強かったが、興行的に成功する作品はまれで、映画界は不況にあえいでいた。 そんな中で作られた作品が「アリラン」(1926)である。朝鮮映画史に残る傑…

1926年のイタリア映画 

1920年代のスペインでは、闘牛を題材にした作品が多く作られた。フアン・アンドレウ監督の「闘牛士の愛」(1926)などはその1つである。 スターとしては、男性スターのバレンティン・パレラが、ベニート・ペロホ監督、アルベルト・インスーア原作の…

イタリア 高まる映画研究への気運

一方で、映画を研究しようという気運がイタリア内で高まっていた。1926年には、新聞の映画批評家担当者アレッサンドラ・ブラゼッティが月刊映画批評誌「ロ・スケルモ(スクリーン)」を創刊し、映画復興キャンペーンを行っている。この雑誌は1928年…

イタリア最後の日となった「ポンペイ最後の日」

かつての栄光を失っていたイタリアは、1925年に夢をもう一度と作られた「クォ・ヴァヂス」が興行的に失敗に終わっていた。 この年、多くの映画製作会社を吸収して大きくなったUCIが、「クォ・ヴァヂス」と同じようにかつての世界的ヒット作である「ポ…

イギリス 壊滅的な映画製作とヒッチコック

イギリスの映画製作は引き続き低迷を続けていた。イギリス国内で公開される作品の中のイギリス映画の割合は、1923年には18%だったが、1926年には5%未満とさらに落ち込みを見せていた。 後にサスペンスの巨匠となるアルフレッド・ヒッチコックは…

その他のドイツ映画 1926年

前衛的な映画製作を行っていたハンス・リヒターは、「映画習作」(1926)を製作している。 後にナチスの記録映画を監督することで有名になるレニ・リーフェンシュタールは、「聖山」(1926)に出演している。 「真実の追究が果たして幸福か」という…

ドイツ 「真実主義」「新即物主義」の台頭

この頃のドイツ映画の特徴として、「カリガリ博士」(1919)から始まった表現主義の衰退と、「真実主義」「新即物主義」の台頭が挙げられる。真実主義は、ダダイスムが源泉であり、現実暴露、社会風刺、反体制的攻撃精神が核であった。対して、新即物主…

ハリウッドへと去るドイツ映画人たち

アメリカを去ったのはムルナウだけではなかった。多額の負債を抱え、MGM、パラマウントと提携をしたウーファを指揮していたエーリッヒ・ポマーは、1926年3月に退社してアメリカへ渡っている。他にも、すでにハリウッドへ渡っていた映画人も含め、エ…

ドイツ G・W・パプストの異常性への興味「心の不思議」

「喜びなき街」(1925)で戦後のウィーンの社会状況を即物的に描き出したゲオルク・ヴィルヘルム・パプストは、「心の不思議」(1926)を監督している。殺人衝動にかられる主人公が、その衝動から解放されるまでを描いている。フロイトの精神分析を…

ドイツ F・W・ムルナウの活躍「ファウスト」

ドイツでは、ゲーテの原作をハンス・キーゼルが脚色し、F・W・ムルナウが監督した「ファウスト」(1926)が、膨大な製作費で作られている。ノーベル文学賞受賞者のゲアハルト・ハウプトマンが文学的な字幕を書き、「ニーベルンゲン」(1924)のカ…

その他のフランス映画 1926年

商業映画を主に監督していたレオン・ポワリエは、アフリカ横断を撮影したドキュメンタリー映画である「アフリカ大探検」(1926)を監督している。 後のフランスの巨匠ルネ・クレールは、即興を重視したコメディ「空想の旅」(1926)を監督している。…

フランス シュールレアリスムの流れ 「時の外何物もなし」etc...

1920年代に起こっていたシュールレアリスムの流れでは、マルセル・デュシャンによる「アネミック・シネマ」(1926)が作られている。実景のショットを素材としながら、映像や編集のリズムだけで成立させた純粋映画と呼ばれる分野では、画家マン・レイ…

「女優ナナ」 ジャン・ルノワール×エミール・ゾラ

後の巨匠ジャン・ルノワールは、「女優ナナ」(1926)を監督している。自分のプロダクションで、制作費を自ら調達して製作した。ゾラの原作を元に、主要人物を20人程度から3人に減らすなどいくつか改変された。ドイツとフランスの撮影所で撮影され、…

フランス ジャック・フェデーの映画製作 「カルメン」

後にフランスを代表する監督の1人となるジャック・フェデーは、「カルメン」(1926)をアルバトロス社のためにスペインで撮っている。ラケル・メレー主演で、リアルティ溢れる作品だったという。ちなみに、当時のフェデーの監督の様子について、ジョルジ…

ジェルメール・デュラック、ジャン・エプスタンらの活躍とフランス印象主義

サイレント期に活躍した数少ない女性監督の1人であるジェルメール・デュラックは、ゴーリキー原作「勇敢な人々の愚行」(1926)で、黒海沿岸の猟師たちの生活を描いている。感覚によって演出し、文学的論理から抜け出すというデュラックの理想は実現で…

フランス マルセル・レルビエ「生けるパスカル」と独立プロの終焉

マルセル・レルビエ監督の「生けるパスカル」(1926)が公開されている。死んだと思われていた男性が実は生きており、以前とは別の女性と愛し合うようになる物語で、イタリアの有名な小説家・劇作家ピランデッロの原作である。カフカ的セットと構図が印…

その他のソ連映画 1926年

他にもソ連では、国立映画学校の校長も努め、ソ連映画の父とも言えるウラジミール・ガルジン監督、レーニンの映画的な考えを成文化したルナチャルスキー脚本の「熊の結婚」(1926)などが作られている。 前提的な舞台から映画へと進出していたエクセント…

ソ連 「母」 プドフキンによるモンタージュの実践

ゴーリキー原作の映画化である「母」(1926)は、フセヴォロド・プドフキン監督による作品である。無学な母親が、革命的な労働者の息子を助けるうちに革命意識に目覚めるという内容で、個人を美しいヒーローに仕上げた作品とも言える。 プドフキンは、対…