日本

マキノプロ 順調な映画製作と上がらない収益

衣笠貞之助が独立したマキノ・プロダクションだったが、昨年デビューした市川右太衛門が「快傑夜叉王」(1926)でスターとなる活躍を見せていた。他にも「影法師捕物帳」「新釈紫頭巾」(1926)などに出演している。「新釈紫頭巾」は、右太衛門の熱…

衣笠の試みと「狂った一頁」の反響

衣笠はそれまでの日本映画の語り口の常識を否定して、新しい映画表現を打ちたてようと試みた。フラッシュバックを盛んに行い、ショットの組み立てにリズミカルな興奮を持たせようとした。衣笠の試みは、ドイツの表現派の影響を超えた、世界的な水準において…

「狂った一頁」 衣笠貞之助の夢と挫折

1925年に、連合映画芸術家協会とマキノ・プロダクションの作品「日輪」を監督した衣笠貞之助は、映画のためのメモもできないほどの極度のスランプに陥り、市川猿之助の一人二役を演じた「天一坊と伊賀之亮」(1926)以外は映画を監督できずにいた。…

その他の松竹映画 1926年

かつて蒲田撮影時所長だった野村芳亭も、「カラボタン」(1926)で気を吐いた。野村の代表作とも言われるサラリーマン喜劇である。課長に昇進した桜井は、同僚たちにおごってばかり。そのため妻が怒って家出してしまい・・・という内容の作品だ。

阪妻・立花・ユニヴァーサル連合映画の設立

阪東妻三郎プロは、松竹と契約したほかにもアメリカのユニヴァーサルとも提携し、映画会社の阪妻・立花・ユニヴァーサル連合映画を設立している。 1926年3月頃から、ユニヴァーサルの日本支社が自社配給のアメリカ映画に日本映画を併営して配給しようと…

松竹 阪東妻三郎プロダクションと契約

自身のプロダクションを設立後、牧野省三の協力の下に、「雄呂血」(1925)などを送り出していた阪東妻三郎プロダクションは、製作4作目の「尊王」(1926)から松竹キネマと配給契約を行うことになった。 これにともない、阪東プロは下加茂スタジオ…

松竹 五所平之助が本領を発揮

1925年に映画監督としてデビューした五所平之助が、「帰らぬ笹笛」(1926)あたりから本領を発揮し始めた。「帰らぬ笹笛」は五所が原作を担当し、美しい田園を舞台に、夢多き少年たちが登場した作品だったという。 1926年秋には予備召集を受けて…

松竹 城戸四郎のディレクター・システムの実行と斉藤寅次郎のデビュー

松竹蒲田撮影所長だった城戸四郎は、それまでのスター中心の映画作りを廃し、ディレクター・システムを実行しようとした。そこで島津保次郎を先頭に、五所平之助、小津安二郎、清水宏、成瀬巳喜男、斎藤寅次郎らの新鋭にチャンスを与えた。 斎藤寅次郎は19…

時代劇の新傾向 幕末チャンバラ映画ブーム

1926年から幕末の勤皇佐幕抗争を描いたチャンバラ映画ブームが起こっている。1926年には「尊王」「幕末」「乱闘の港」が阪東妻三郎プロで、「義に鳴る虎徹」「月形半平太」「修羅王」が日活で作られている。流行は太平洋戦争敗戦まで続き、坂本竜馬…

日本映画最初のスター 尾上松之助の死去

伊藤大輔と大河内傳次郎がコンビを組んだこの年、世代交代を象徴する出来事が起こる。1926年9月11日、日本映画最初のスター、尾上松之助が死去したのだ。51歳だった。「侠骨三日月」(1926)の撮影中に心筋梗塞で倒れたのだった。日活は松之助…

日活 伊藤大輔・大河内傳次郎の伝説的コンビの誕生

流浪の監督生活を続けていた伊藤大輔は、直木三十五の連合映画芸術家協会から依頼され、奈良に伊藤映画研究所を設立して映画製作を行った。菊池寛の「第二の接吻」を原作とする「京子と倭文子」(1926)や、「日輪」(1926)を監督したが、資金難で…

日活の活劇映画 1926年

日活は活劇スターとして活躍した鈴木伝明が1925年に松竹に移籍してしまっていたが、新しい役者たちが活躍をしていた。浅岡信夫、広瀬恒美、大久保謙治らを起用した、上海や台湾でロケをされた活劇映画が作られたという。監督には村田実、溝口健二、阿部…

「狂恋の女師匠」と怪談映画の系譜

溝口健二監督、酒井米子主演の「狂恋の女師匠」(1926)は、川口松太郎が三遊亭円朝作「真景色累ヶ淵」を脚色した作品である。本作は、怪談の系譜としても語られるべき作品でもある。 日本の怪談映画は、歌舞伎・講談・落語・民間伝承に突き当たり、日本…

日活 女優の活躍 酒井米子

現代劇で活況を見せ始めた日活では、女優の活躍が目立って来ていた。 日活は、梅村蓉子を松竹から引き抜いたが、日活が育てた女優も活躍していた。酒井米子はその1人である。1920年に日活が初めて女優を採用したときは芸者で、それ以前は新劇女優だった…

日活 溝口健二の「紙人形春の囁き」「金」

阿部豊と同じく日活に所属して監督をしていた溝口健二も、岡田時彦を巧みに使った。だが、アメリカナイズされた役ではなく、純日本的な情緒的な世界で、梅村蓉子と組み合わせて使ったという。 「紙人形春の囁き」(1926)は田中栄三が脚本を担当した作品…

ルビッチ・タッチの日本映画への影響

阿部は、ハリウッドで役者として活躍していたころ、セシル・B・デミルと一緒に仕事をしており、阿部の洒落て小粋な風俗映画作家ぶりは、デミルの影響を受けていたという。だが、当時の日本の批評家は阿部の作風をエルンスト・ルビッチ風と見たという。それ…

岡田時彦 アメリカニズムを体現した男

阿部豊監督の「足にさわった女」(1926)に主演したのは、岡田時彦である。また、阿部豊が監督して和と洋の過渡期の時代の風俗描写に成功と言われる、各社競作となった「京子と倭文子」(1926)のにも岡田は主演している(菊池寛の「第二の接吻」が…

日活 森岩雄と金曜会の発足

「足にさわった女」の脚本を書いた益田甫は、森岩雄が日活の企画部内で主宰したグループである金曜会に所属していた。原作・脚本を担当した「街の手品師」(1925)を携えての渡欧から帰国した森は、日活で相談役的な立場で活動をしていた。その一方で、…

阿部豊の活躍 日活現代劇にアメリカニズムを直輸入した男

日活では1925年春に役者として活躍していたハリウッドから帰国した阿部豊が入社して、デビュー作「母校の為めに」(1925)以降は現代劇の監督として活躍していた。阿部が作った現代劇は、アメリカニズムを直輸入した作品として評判になる。 梅村蓉子…

その他の日本映画 1925年

「キネマ旬報」を発行していた田中三郎は、映画雑誌「映画往来」を創刊している。「キネマ旬報」の映画広告に対する批判から、純粋な映画評論を目指して創刊された。田中は2誌に携わることになり、多忙を極めたという。 貿易商の皆川芳造の手により、アメリ…

キネマ旬報で行われた東西スターの人気投票 1925年

1925年にキネマ旬報で東西スターの人気投票が行われた。結果は下記のとおり。日本女優 1.岡田嘉子 2.英百合子 3.砂田駒子 4.マキノ輝子 5.栗島すみ子日本男優 1.阪東妻三郎 2.中野英治 3.鈴木伝明 4.近藤伊与吉 5.勝見庸太郎外国女…

キネマ旬報ベスト・テン 1925年度

昨年度から開始されたキネマ旬報ベスト・テンの、1925年度の選出作品は以下の通り。 ちなみに、当時は読者の投票により選出される形式だった。芸術的優秀映画 1位 「嘆きのピエロ」(1924 フランス 監督ジャック・カトラン) 2位 「キーン」(19…

輸入映画 1925年

ユニヴァーサル、パラマウント、ユナイテッド・アーティスツに加えて、1924年にはフォックスも日本支社を設立していた。さらに1925年6月には、それまでは日活が配給していたファースト・ナショナル社も支社を設立している。 1925年には下記のよ…

内務省警保局の映画検閲の特徴 1925年

内務省による映画検閲の特徴としては、次のような5つの点が挙げられる。 1つ目に、フィルム検閲に関係することのみで、興行に関するものは今まで通り各地方が定めるとした。 2つ目に、検閲は原則として内務大臣が行うとした(例外として、実写報道用フィ…

内務省警保局が映画検閲権を掌握 1925年

それまで各地方で行われていた映画検閲だったが、内務省警保局が「活動写真フィルム検閲規則」を作り、映画検閲権を掌握するようになった。これは、全国の映画を一律で規制するメカニズムであると同時に、それまでの風俗の取締りからイデオロギーや思想の取…

岡田時彦の流浪の俳優生活 1925年

この後すぐに大スターの座を獲得する岡田時彦は、マキノ映画製作所にいたが、帝国キネマの引き抜き旋風の際に、帝国キネマへ移籍していた。帝国キネマで、何本かの作品に出演した岡田を、当時東邦映画で監督として活躍していた伊藤大輔が引っ張ってきて「煙…

伊藤大輔の流浪の監督生活と山本嘉次郎 1925年

1924年に帝国キネマで監督としてデビューした伊藤大輔は、東邦映画へ移籍している。そこで伊藤は、ロシアの小説家であるツルゲーネフ作品の翻案「煙」(1925)を監督した。若い大学生が没落華族の娘と恋仲になるが、女は裕福な軍人と結婚してしまう…

「雄呂血」 阪東妻三郎の決定打 1925年

東亜キネマに戻っていた阪東妻三郎は、牧野省三が設立したマキノ・プロダクションには加わらず、立花良介の一立商店の後ろ盾で、独立プロダクションを設立して、マキノ・プロダクションと提携して配給を行うようになった。1925年には、「異人娘と武士」…

市川右太衛門のデビュー 1925年

阪東妻三郎が独立したマキノ・プロダクションは、スターがおらず、興行的にヒット作を生み出せなかったと言われる。そんな中、牧野省三は1人の役者を新たなスターとしてデビューさせている。「黒髪地獄」(1925)でデビューした市川右太衛門である。 市…

「日輪」の公開と、不敬罪問題 1925年

マキノ・プロダクションは、剣劇映画のみならず、連合映画芸術家協会と組んで、野心作を製作した。その1つが、「日輪」(1925)である。 監督を務めたのは衣笠貞之助であり、牧野省三が製作総指揮にあたった。卑弥呼についての物語であり、マキノ智子が…