日本

独立プロの夢と四社連盟による排撃 1925年

マキノ・プロダクションと、マキノに触発されて出来た独立プロダクションの動きは、大手の映画会社をあわてさせた。そこで、日活、松竹、帝キネ、東亜の大手の映画会社は、四社連盟を結成し、独立プロが製作した映画の上映を阻止しようとした。四社連盟は、…

マキノ・プロダクションの設立と独立プロの興隆 1925年

東亜キネマを去った牧野省三は、1925年6月にマキノ・プロダクションを創立し、御室天寿ヶ丘に撮影所を建設している。脚本の寿々喜多呂九郎、監督の沼田紅緑、井上金太郎、金森万象、衣笠貞之助らが東亜からマキノへ移籍した。第1作は沼田紅緑監督「討…

「月形半平太」 連合映画芸術家協会の第一作 1925年

連合映画芸術家協会の第一作として、新国劇の当たり狂言である「月形半平太」(1925)が、牧野省三と提携し、衣笠貞之助監督で作られた。製作開始の矢先に、撮影が行われていたマキノの等持院スタジオが不審火で焼失したり、主演の沢田正二郎が昼は映画…

連合映画芸術家協会の設立 1925年

1925年に1つの協会が、文学・演劇・映画界のそうそうたる顔ぶれで設立されている。連合映画芸術家協会がそれである。文芸からは菊池寛、久米正雄、里見紝、白井喬二ら、演劇からは新国劇の創始者の沢田正二郎や歌舞伎の革命児といわれていた市川猿之助…

東亜キネマ マキノ省三と寿々喜多呂九平の映画製作 1925年

1924年に、マキノ省三のマキノ映画製作所は東亜キネマに吸収合併された。牧野は会社とかけあい、自由な映画製作を認めさせ、配給は東亜キネマが担当するという形だった。その東亜キネマでは、小説家の直木三十五たちの斡旋で、当時売り出し中だった新国…

帝国キネマ 引き抜きの果ての没落 1925年

1924年に、他社から多くの役者やスタッフを引き抜いた帝国キネマだったが、給料などの待遇差への不満から、旧来から帝国キネマにいた蘆屋撮影所全員が1月に辞表を提出した。引き抜きを画策した立石駒吉が、撮影所長の権限で全員をクビにした。そして、…

松竹、日活の競作「大地は微笑む」 1925年

この年、「大地は微笑む」(1925)という作品が、松竹と日活の競作となり、公開されている。 「大地は微笑む」は、朝日新聞が当時としては高額な千円という懸賞金で募集したコンクールに当選した小説の映画化だった。選ばれた「大地は微笑む」を書いた吉…

日活 溝口健二、女性に切られる 1925年

活躍を続けていた溝口健二は、戦争風刺劇の漫画が原作の「無銭不戦」(1925)を監督している。この作品は、金がなければ戦わないという、中国人の心理を露骨に描きすぎているという理由で、検閲により半年間お蔵入りとされた後、関西では封切られたが、…

日活 尾上松之助の1000本記念映画「荒木又右衛門」 1925年

時代劇が変わっていく中、日本映画草創期の大スターである尾上松之助の作品を変化を求められていた。前田曙山原作「落花の舞」(1925)、大仏次郎「鞍馬天狗」(1925)などの文芸作品を原作とした作品に出演するも、演技スタイルの古さは変わらなか…

日活 村田実と森岩雄の結晶「街の手品師」 1925年

日活で活躍を続けていた村田実は、映画批評を執筆しながら脚本も書いていた森岩雄原作・脚本の「街の手品師」(1925)を監督している。脚本の森は、当時最も欧米の映画に詳しい人物と言えた。 ある手品師が、中華料理屋の女給の娘に恋をするが、娘には恋…

松竹京都 時代劇の不振 1925年

1924年に、スキャンダルから蒲田撮影所から京都下加茂撮影所へやって来た野村芳亭は、「お伝地獄」(1925)などの時代劇を製作していた。それまで新派を作ってきた野村の時代劇は、女性的題材、演劇的雰囲気から抜け切れず、スリルとスピード、サス…

松竹 島津保次郎の活躍 1925年

1924年に帝国キネマによる引き抜きにあい、1925年には日活が梅村蓉子を松竹から引き抜いた。それに対して松竹は、鈴木伝明を逆に日活から引き抜いた。引き抜き合戦により、松竹蒲田撮影所長だった城戸四郎はスター・システムの弊害を痛感し、脚本家と…

関東大震災とアメリカ映画の影響 1925年

日本映画は関東大震災を機に変わったと言われる。関東大震災による破壊は、従来の旧習を廃して、新しい文化を創造する機運をもたらした。この機運に乗って、大震災後に、日本映画は一大飛躍を遂げたのである。飯島正は、1920年代に日本映画は他の国が3…

映画評「逆流」

※ネタバレが含まれている場合があります[製作国]日本 [製作]東亜キネマ[監督]二川文太郎 [原作・脚本]寿々喜多呂九平 [撮影]橋本佐一呂[出演]阪東妻三郎、片岡紅三郎、嵐冠三郎、マキノ輝子、清水れい子 浪人の南條三樹三郎は、美しい女性の操に恋をしている…

その他の日本映画 1924年

純映画劇運動を推進するため映画芸術協会を結成していた帰山教正は、「愛の曲」(1924)を製作したが、興行的に振るわなかった。この頃になると、新しい人々が帰山の動きと連動しながら新しい流れを作っていたが、帰山自身は不遇の晩年を送ったと言われ…

輸入映画−1923年 アメリカ映画会社の日本進出

1923年の関東大震災当時、アメリカの映画会社の中では、ユニヴァーサル、パラマウント、UAの日本支社があったが、震災によって3社とも関西へ本社を移転させている。 1924年6月、フォックスも進出。フォックスは帝キネと、UAはマキノと提携し和…

キネマ旬報ベストテンのスタート

この年から、映画雑誌「キネマ旬報」が、優秀映画ベストテンの選考をスタートさせている。読者から「芸術的優秀映画」「娯楽的優秀映画」の2部門それぞれで、最も優れた作品を1本のみ読者に投票してもらうという形式だった。また、第1回と第2回は外国映…

皇太子ご成婚ニュース映画

この頃になると、新聞社がニュース映画を撮影するようになっていた。1924年の皇太子御成婚ニュースでは、朝日が撮影したフィルムを飛行機で大阪に飛ばして、即夜公開した。毎日も飛ばしたが、途中で不時着したために即夜公開できなかったとう。これは、…

森岩雄 脚本家として

後に東宝の副社長の森岩雄は、外国映画の輸入などを行っていた。その森岩雄は「良い映画を讃える会」を設立し、第一回鑑賞会を開催。「巴里の女性」(1923)を上映した。 森は映画批評も執筆していたが、一方でシナリオも執筆した。 原作を提供した「恋…

帝キネの引き抜き工作

帝国キネマは大阪唯一の映画会社で、大震災の影響をほとんど受けなかった。東京に現代劇部を持っていたが、大震災後に解散した。さらに、伊藤大輔を大阪に迎えて、従業員も増やした。製作体制を増強した帝キネからは、「嘆きの曲」「落城の唄」といった作品…

山本嘉次郎と牧野省三の出会い

日活に所属しながらも無断で帝国キネマの「山語らず」(1924)の撮影に参加したりと、フラフラしていた山本嘉次郎は、キネマ旬報の田中三郎社長の口利きで東亜キネマ入社している。当時22歳だった山本だったが、神戸港を背景にした活劇「断雲」(19…

マキノ映画製作所と東亜キネマの合併

時代劇に新しい波を起こしていたマキノ映画製作所だったが、経営的には借金で首が回らない状態だった。以前に帝国キネマとの対等合併の話も出たが、牧野省三以外が反対だったために実現しなかった。時代劇部を持たない松竹と提携の話が出たが、関東大震災で…

マキノ映画 時代劇の新しい波

牧野映画製作所は、寿々喜多呂九平という脚本家を得て、時代劇に新しい波を起こしていた。アメリカの活劇映画に似たスピーディなスタイルが観客に受けた。金森万象、沼田紅緑、二川文太郎、井上金太郎といった監督や寿々喜多呂九平が「マキノを囲る同人社」…

松竹時代劇の革新

関東大震災により、東京蒲田撮影所から京都下加茂撮影所にやってきていたスタッフのうち、現代劇部は蒲田へ戻ったが、時代劇部は下加茂に残った。下加茂のバラックのスタジオの設備を整え、白井信太郎の管理の下で映画製作を行った。 沢村四郎五郎主演の情緒…

蒲田調とは何か?

蒲田調とは何か?佐藤忠男は「講座日本映画」の中で、次のように書いている。「それまでの新派悲劇調の現代劇映画に、日常的なリアリズムと、明るいヒューマニティと、近代性とをもたらした」。 彼らがお手本にしたのは、1910年代にユニヴァーサル傘下の…

城戸四郎の松竹蒲田撮影所長就任と、蒲田調の成立

野村に代わって所長となったのが、城戸四郎である。城戸は、1922年に松竹入社した人物である。松竹社長の大谷竹次郎と家同士が知り合いで婿となり、営業部、経理部を経験した後、製作担当重役となっていた。1924年に蒲田撮影所長となった時は30歳…

松竹 野村芳亭蒲田撮影所長の活躍とスキャンダル

当時の蒲田撮影所長は、野村芳亭だった。野村芳亭の指導下で、女性本位の題材と悲劇的要素を加味した家庭劇を中心に、スター第一主義の宣伝で効果を上げた。それまで日活時代劇(松之助映画)がもっとも人気があったが、それを凌駕するほどの勢いだったとい…

その他の日活映画 1924年

日活の時代劇の分野では、尾上松之助のような英雄豪傑を描く作品が多く作られていたが、時代遅れとなっていた。そんな中、池田富保が、松之助出演の「渡し守と武士」(1924)で監督デビューを果たしている。池田はリアリスティックな剣劇を目指そうとし…

日活 溝口健二の活躍

1923年に監督デビューを果たした溝口健二の活躍が続いていた。 「哀しき白痴」(1924)は、溝口が原作の作品で、金をつぎ込んだ女に情夫がいることを知った白痴が、女と情夫を死に追いやるという内容だった。新派劇の常套的なお膳立てだが古臭くなく…

日活 続く村田実の活躍

日活現代劇部長で、監督の個性に主体性を置いた村田実は、自らも監督として活躍しており、吉田絃二郎原作の「清作の妻」(1924)を監督・脚色している。妾をしていた女性が模範的な男性と結婚するも、村の人々から白眼視される。夫は日露戦争に出征して…