2006-03-01から1ヶ月間の記事一覧
「常識はずれの新たな戦い」(1900) 2人の女性によるレスリングは、女性から男性になったり、相手の体がバラバラになったり、ペチャンコになったり、爆発したりという常識はずれの戦いとなる。 入れ替えのトリックを駆使して、人を人形と入れ替えて、…
「PLAYING CARDS(UNE PARTIE DE CARTES)」(1896) リュミエール兄弟の「カード遊び」(1895?)と同じ構図、同じ展開の作品。メリエスの映画会社スター・フィルムのカタログ番号1番を飾る輝かしき作品である。メリエスにとっては習作だったのだろう…
順調すぎるくらい順調だったパテ社に対してメリエスは、「各時代にわたる文明」(1908)といったメリエス流の夢幻的な作品を製作したが、興行的に振るわなくなっていた。文芸作品、庶民的な喜劇を制作するも失敗した。舞台にこだわっていたメリエスが、…
エジソンのカルテル(MPPC)に参加した2つのフランスの映画会社、パテ社とジョルジュ・メリエスのスター・フィルム社は対照的な運命を辿っていた。 この年のパテ社は、7つのスタジオを保有し、多くの演出家たちが活躍していた。撮影はスタジオとロケを…
アメリカにおけるカルテルの形勢は、ヨーロッパにも影響を及ぼした。ヨーロッパからカルテルの参加が認められたのは、パテ社とジョルジュ・メリエスのスター・フィルム社の2社だけだった。 3月に、ヨーロッパの映画製作会社たちによる国際会議が開催されて…
MPPCが発足して約1週間後の12月24日に、ニューヨークの警察はニッケルオデオンを不道徳として、500館に対し一斉に閉鎖を命じた。ニッケルオデオンを運営していたマーカス・ロウやウィリアム・フォックスは奔走し、閉鎖を数日後に解除させた。 当…
このまま決裂かと思われたが、バイオグラフ社のケネディがエジソン社に対して、このまま両社の意見が一致をしなければ、世界中にバイオグラフ社製の映写機を販売するとエジソン社に圧力をかけた。バイオグラフ社の映写機が世界中に広まると、エジソン社が形…
1907年末に、エジソン社の特許料の支払いに同意したアメリカの8つの映画会社は、エジソン社との協定に調印した。しかし、この8つの映画会社には、バイオグラフ社という大きな映画会社は含まれていなかった。 エジソン社は映画の賃貸業者に対して、年間…
日本の映画界は、製作はまだ貧弱で、外国映画の輸入興行が中心だった。だが、映画製作も行われている。 11代目を襲名した歌舞伎役者・片岡仁左衛門は、襲名記念映画を吉沢商店に依頼し、撮影されている。また、この作品の興行が成功したために、吉沢商店は…
これまで、日本の常設映画館は浅草の電気館のみだったが、この年から常設館が作られ始める。 大阪には千日前電気館という常設映画館が吉沢商店の経営で作られた。欧米の映画の輸入販売も行っていた吉沢商店は、千日前電気館でも欧米の映画を上映し、興行は成…
ヨーロッパの映画興行は、都市に常設の映画館が出来ていたとはいえ、露天興行もまだ盛んだった。その露天興行に打撃を与えたのが、パテ社の映画販売からレンタルへの移行である。それまで買い取ったフィルムを何年遅れであっても使用を繰り返したり、使い古…
フィンランドでは、1906年に映画製作会社のアテリエ・アポロ社を設立したカール・エーミル・ストールベルイが、シナリオ公募コンテストを開催している。当選作の「酒密造人」(1907)はフィンランド初の劇映画と言われている。20分弱の短編で、ス…
ロシアではこの年、アレクサンドル・ドランコフによって、ロシアで最初のスタジオがサンクト・ペテルブルグで開設されている。 ドランコフは、ロンドンから最新の撮影機器を借金をして購入して、ニュース映画を撮影していた。また、ロンドンの「タイムズ」紙…
カルロ・ロッシ社は、フランスのパテ社から演出家シャルル・レピーヌらを引き抜いて、パテ社の作品を模倣した作品を製作していた。このことにパテは怒り、「秘守義務違反」で告訴、レピーヌを数ヶ月投獄させている。レピーヌが出獄した後、入社したばかりの…
かつて人気を誇ったジョルジュ・メリエスはこの頃には人気を失っていたが、「海底二十万マイル」(1907)といった作品を製作している。 また、メリエスのスター・フィルムのネガがニューヨーク倉庫からすべて盗まれるという不幸にもあっている。これは、…
この頃、同じような内容の作品を繰り返し製作していた映画に、観客は徐々に顔を背け始めていた。そんな状況に対応するため、高尚な主題を映画化する試みがフランスで行われ始めていた。 「放蕩息子」(1907)という作品は、劇作家ミシェル・カレが書いた…
もちろん、ここが日本であるという理由もある。しかし、どうやらフランスでも状況はさほど変わらないらしい。おそらく、ゴーモン社の倉庫の中には探し出せばいくつかのフィルムは出てきそうらしいのだが、利益にならないアリス・ギィのフィルムの捜索が行われ…
アリス・ギィはジョルジュ・メリエスと同じ頃、映画を製作し、物語映画の意味ではメリエスに先行していたという説を唱える人もいる。今とは異なり、情報の伝達が遅かった時代の話だ。まだ、映画製作が集約的ではなく、散発的に行われていた時代の話だ。実際の…
ここで、ちょっとアリス・ギィについて触れたい。 アリス・ギィの名前は映画史に燦然と輝いているわけではない。むしろ、多少映画史に詳しい人物でも知らない人は多くいるだろう。 「アリス」は一般的に女性の名前であり、アリス・ギイは女性である。映画草…
ゴーモン社の映画製作責任者であったアリス・ギイはこの年、結婚を機にフランスからアメリカへと渡っている。 代わりにゴーモン社の映画製作で中心的人物となったのはルイ・フイヤードである。フイヤードは喜劇とトリック映画を中心に多くの作品を製作したが…
映画製作の面において、パテ社は世界の最大手となっていた。この年、パテ社はフィルムの販売を中止し、フィルムをレンタル制とすることとした。この変更により、パテ社はより多くの収入が見込めるようになった。 レンタル制は他の映画会社へと広まっていくこ…
この年より、以後7年間にわたり毎週1本の割合で製作され、375本もの作品となる「ブロンコ・ビリー」シリーズが始まっている。主演したのは、ギルバート・M・アンダーソンである。無法者だが、優しい心ももっているという「グッド・バッド・マン」とい…
後に「イントレランス」「国民の創生」といった作品で名を残すD・W・グリフィスがこの年、映画界入りしている。 D・W・グリフィス夫妻は、ニューヨークで作家になることを目指しつつ、巡業の舞台俳優の仕事をしていた。生活のためにシナリオ(「トスカ」…
ニッケルオデオンは増え続け、昨年ニューヨークにニッケルオデオンを開館したマーカス・ロウは40の映画館を所有するようになっていた。 また、ロウと同じようにニッケルオデオンで大儲けしていたカール・レムリは、この年より映画製作を開始している。
以前より、他の映画会社をエジソン社の特許に触れているとして提訴していたエジソン社は、昨年の判決で敗訴していたが、控訴審で一部勝訴の判決を得る。さらに、シカゴでは映画製作会社のシーリグ社からエジソン社側の全面勝訴の判決を得る。 一方で、シカゴ…
この年、エム・パテー商会という会社が設立されている。 エム・パテー商会は、南洋帰りの壮漢と言われた梅屋庄吉がボスで、輸入の特約を結んだフランスのパテ社の名前を社名に使った。梅屋は香港や南方で興行を行い、1906年(明治39年)に帰国したとき…
映画の巨大産業化は次第に進んでいた。 フィルムの焼付け工場も大規模なものが作られ、パテ社ではこの年、巨大な焼付け工場を建設し、1日4万メートルの現像が可能となった。5年ほど前まで、ジョルジュ・メリエスは1日100メートルほどしか現像できなか…
世界初といわれる長編映画がこの年に作られている。作品名は「ケリー・ギャング物語」であり、作られた国はオーストラリアだった。 実在した無法者の生涯を映画化したこの作品は、上映時間が70分あり、当時の世界最長の映画だった。映画はヒットし、制作費…
1905年より始まったニッケルオデオンの流行はこの年も続いており、後にハリウッドの大立者となるカール・レムリやマーカス・ロウもニッケルオデオンを開館させている。 レムリはシカゴにニッケルオデオンを開館させて、大儲けしている。開館から2ヵ月後…
アメリカでは、エジソン社が大掛かりな撮影所を建設している。エドウィン・S・ポーターは、引き続きエジソン社で働いており、この頃には映画製作部長兼芸術監修者となっていた。また、エジソンのライバル会社であるヴァイタグラフ社やバイオグラフ社も新し…