2005-09-01から1ヶ月間の記事一覧

 リュミエール社作品集(6)

「通りのダンサー」 ロンドン。アイルランド人の少女たちが踊っている様子を撮影。 雨上がりらしい光ったコンクリートが幻想的ですらある。 撮影の対象とカメラの間を紳士や馬車が通るところに、演出とその限界が感じられる。 「雪上の滑走」 軍隊の訓練の様…

 リュミエール社作品集(5)

「壁の取りこわし」(1896) 人気のあった作品。 オーギュスト・リュミエールの指示の元に、男たちが壁を倒す様子を撮影。 ほこりが舞う点が好評だったという。 「壁の取りこわし(ふたたび)」 「壁の取りこわし」を逆回しで上映。 人気があったのは、…

 リュミエール社作品集(4)

「船から撮影された大運河のパノラマ」(1896年12月以前) プロミオによって撮影された世界最初期の移動撮影の1つ。 ヴェニスの運河のゴンドラにカメラを乗せて、町並みを撮影している。 「共和国広場」 パリ。共和国広場の様子を撮影。 人力車で引か…

 リュミエール社作品集(3)

「軽食をとる小さな子供たち」 リュミエール一族の小さな子供たち(女の子2人、男の子1人)が横一列に並んで食べ物をつまんでいる。 「家族ゲーム」的な横一列での食事は明らかに演出。 「女の争い」(1896) リュミエール社の映写技師として活躍する…

 リュミエール社作品集(2)

「イタリア国王夫妻」 ウンベルト1世夫妻が階段から降りてくる光景。 距離があるため顔がはっきりとわからないのは、近くでは撮影できなかったためか、狙いか? 「自動ソーセージ屋」 生きた豚を箱に入れ、後ろのクランクを回すと、ソーセージが出来上がる…

 リュミエール社作品集(1)

「ラ・シオタ駅に到着する列車」(1897年1月以前) リュミエール家の女性たちが出演。演出されている。 撮影の日付から見て、グラン・カフェの初上映の際に観客が飛びのいたという伝説の作品はこれではない可能性も? 「蛇踊り」(1897年12月以前…

 リュミエール社の作品を見る方法

これからリュミエール社の作品を1つずつ簡単なコメントをつけて紹介していく。 ちなみに、私がリュミエール社の作品を見のは下記の方法によって。もしも、興味がある方は下記の方法で見て下さい。 インターネットでダウンロードして見る。 HOLLYWOODPARTY|…

 シネマトグラフの一般公開

アメリカでディクソンがミュートスコープを公開したのとほぼ同時期の1895年12月に、フランスではリュミエール兄弟がシネマトグラフを公開している。シネマトグラフはパリの人々を魅了し、多くの観客たちを集めた。 リュミエール兄弟はシネマトグラフの…

 キネトスコープの興行(5)

エジソン社を離れたディクソンは、レイサム一家とも手を切り、他の人々と手を組み、1895年末にアメリカン・ミュートスコープ社を設立する。ディクソンはキネトスコープの特許を侵害しない形で(キネトスコープの開発に参加していたのだから、それは簡単…

 キネトスコープの興行(4)

しかし、キネトスコープの人気は長くは続かなかった。珍しい機械として一通り見られてしまうと、人々は違う見世物へと興味を向けてしまったのだ。キネトスコープの画面があまりにも小さすぎ(3センチ×4センチほどの大きさだった)たために、何回も見て楽し…

 キネトスコープの興行(3)

1894年4月14日、ニューヨークのブロードウェイ1155番地にキネトスコープパーラーが開かれた。続いてアメリカ国内の各都市に広がり、ロンドンやフランスにも広がっていった。 キネトスコープは儲かった。物珍しさから客は押し寄せた。さらに、ラフ…

 キネトスコープの興行(2)

ラフとギャモンは1893年に開かれたシカゴ万博をキネトスコープの発表の場所にしようとして、エジソンに機械の製造を依頼したが、一台しか間に合わなかったらしい。 1891年に特許を取りながら、1893年の万博に間に合わなかった理由は、鉄鉱石選別…

 キネトスコープの興行(1)

エジソンの「キネトスコープ」、リュミエール兄弟の「シネマトグラフ」の機械の開発について今まで書いてきた。ここからは、機械として誕生した映画が人々に受け入れられ、どのように変化していくかを書いていきたい。 とりあえずは、1895年のシネマトグ…

 シネマトグラフ リュミエール兄弟(4)

そんな兄弟も間欠運動(フィルムを連続的に送りながら、一瞬ずつ静止させる仕組み)については悩んだらしい。だが、最終的に弟のルイが解決方法を考え出すことに成功した(このことにより、兄のアントワーヌはルイこそが唯一の発明者であると語っている)。 …

 シネマトグラフ リュミエール兄弟(3)

リュミエール兄弟はすでに、エジソンがキネトスコープで導入していたパーフォレーションについて知っていたため、一定の速度で中心をしっかりと据えてフィルムを送るという映画に必要な条件の1つをクリアーしていた。 また、多くの映画機械の開発者が入手で…

 シネマトグラフ リュミエール兄弟(2)

弟のルイは14歳のときに、写真の感光材の改良に成功する。その感光材の出来が素晴らしく、欲しいという人が大勢いたために、アントワーヌは工場を作って大量生産をして販売する事にした。「エチケット・ブルー」と名づけられたこの感光材は大ヒットして、…

 シネマトグラフ リュミエール兄弟(1)

リュミエール兄弟。「映画の父」として、映画史に輝く兄弟に話は移る。彼らの名前とともに輝く日付けがある。それは1895年12月28日。リュミエール兄弟が開発した上映式の機械シネマトグラフによる一般有料上映が行われた日だ。 覗き穴式の映像として…

 キネトスコープ エジソン(8)

結局、エジソンの映像は覗き見式のものとして開発され、1891年には特許が取られる。それは「キネトスコープ」と名づけられた。同時に撮影機についても特許が申請されており、こちらは「キネトグラフ」と名づけられた。 エジソンは研究には消極的だったに…

 キネトスコープ エジソン(7)

エジソンは自らが思い描いたものと異なる映像よりも、別のものに興味を持つようになる。それは、鉄鉱石選別の研究だった。純粋に発明の興味として映像よりも鉄鉱石選別に興味を持ったのかはわからない。だが、少なくとも投資先として、エジソンは鉄鉱石を選…

 キネトスコープ エジソン(6)

必要な要件が揃っていたにも関わらず、エジソンは映像にそれほど乗り気ではなかった。その理由は、当時の研究の結果がエジソンの描くものとはかけ離れていたからである。では、エジソンが描いていたものは何だったのか? エジソンが思い描いていたのは、トー…

 キネトスコープ エジソン(5)

なぜ、エジソンは映像の機械を開発するための要件をクリアする事ができたのだろうか?その答えは、エジソンのこれまでの実績と、それに伴う知名度によるものと思われる。エジソンはマレーの撮影機からヒントを得た。知識は共有すべきだというのがマレーの信…

 キネトスコープ エジソン(4)

研究が行き詰まった状況の1889年にエジソンはヨーロッパに休暇旅行へ行く。そして、エジソンはエチエンヌ・マレーを訪問し、マレーの撮影機を見たという。そして、すぐに自分の蓄音機式のやり方が間違っていた事を悟り、10月に帰国するとディクソンに…

 キネトスコープ エジソン(3)

きっかけはどうであろうとも、1888年からニュージャージー州ウエスト・オレンジのエジソンの研究所では、映像に向けての研究が始まった。実際に研究をメインで担当したのはウィリアム・ディクソンという人物だった。だが、ディクソンは持っている時間の…

 キネトスコープ エジソン(2)

エジソンは1894年に次のように記している。「1887年に、耳に対して蓄音機がなした事を視覚に対してなす機械を組み立てることができるという考えが私に起こった。この機械は音と運動という二つを組み合わせて、記録し同時に再生するのである」と。 当…

 キネトスコープ エジソン(1)

ここまで映画前史にあたる部分を見てきた。 興行的・娯楽的な部分は、映画の発展にとって関係ある部分といえるだろう。映画の誕生について直接関係のあるのは、残像現象によって人間が写真を映像と認識するために必要な機械や技術の開発の部分だ。 これから…

 映画の興行的・娯楽的祖先(8−4) テアトル・オプティーク エミール・レイノー

テアトル・オプティークには、単なる風景ではなく内容があった。物語があった。その意味で、レイノーの功績は小さくない。実際、アニメーションの分野ではレイノーの功績は高く称えられている。CGの普及により、実写のアニメーションの境目が以前ほどはっ…

 映画の興行的・娯楽的祖先(8−3) テアトル・オプティーク エミール・レイノー

1895年10月にはクロノフォトグラフ・マレイを応用した「フォトセノグラフ」という写真撮影機を製作。フィルムをそのまま使うのではなく、塗り直したり、彩色してテアトル・オプティークに利用した。 1896年の4月からは二人の道化師を撮影し、新作…

 映画の興行的・娯楽的祖先(8−2) テアトル・オプティーク エミール・レイノー

レイノーの最初の出し物は「道化師とその犬」「うまい一杯のビール」「哀れなピエロ」の3本。反復や、歌をうたう人物たちの身振りを簡潔にする、背景と登場人物の分離といった現在のアニメーションでも行われている方法を用いていた。またサウンドつきで、…

 映画の興行的・娯楽的祖先(8−1) テアトル・オプティーク エミール・レイノー

テアトル・オプティークはエミール・レイノーが自ら開発したプラクシノスコープを発展させたもの。長い挿絵の帯を手動で巻きとって動かしながら、集光レンズと鏡の組み合わせでスクリーンに映写した。動画はゼラチンの帯の上に描かれ、帯の両側に空いた送り…

 映画の興行的・娯楽的祖先(7) ゾーイトロープ プラクシノスコープ

ゾーイトロープはフェナキスティスコープの円盤と鏡の代わりにドラムを使ったもの。回転するドラムのスリットとスリットの間に生じる瞬間の闇がシャッターの役割を演じて、残像現象をもたらし、内側に書かれた絵が動いて見えるという仕組み。 見られる映像の…