2012-01-01から1年間の記事一覧

マキノ映画製作所の映画製作

二川文太郎がこの年から監督として活躍を始めている。マキノの教育映画にカット・バックを入れたり、タイトルによる省略を行ったりして見事に再編集したことがあり、その手腕を牧野省三に買われたのだった。 他にもマキノでは「二羽の小鳥」「弥次と北八」「…

マキノ映画製作所の設立

牧野省三の牧野教育映画製作所は、高野山の宣伝映画である「貧者の一燈」(1923)や「不如帰」(1923)といった作品や、衣笠貞之助監督の「不知火」(1923)などを製作したりしていた。衣笠は、田園物語を美しい自然とソフト・フォーカスで演出…

充実してきた松竹の映画製作と興行

アメリカ映画の要素を取り入れて新しい試みを行っていた松竹現代劇に対し、時代劇の分野では伊藤大輔脚本の「女と海賊」(1923)が製作されている。「清水次郎長」の好評を受けて製作された。松竹新時代劇と銘打たれた第2作で、上映時の声色や鳴り物を…

松竹 「船頭小唄」のヒットと栗島すみ子の人気

松竹が製作した大ヒット作に池田義信監督「船頭小唄」(1923)がある。 監督の池田義臣は、会社から正月用の中編ものを至急作れと言われて、わら半紙数枚の筋書きを伊藤大輔からもらい、数人のスタッフと俳優を引き連れて夜行列車に飛び乗った。撮影後急…

松竹 アメリカ映画の影響 「人生の愛」「忍術ごっこ」

当時の日本では、アメリカ映画のジャンルを積極的に取り入れていたが、松竹は特にその傾向が強かった。 親の愛を扱ったアメリカのメロドラマは日本映画に影響を与えていた。例えば牛原虚彦監督の「人生の愛」(1923)は、アメリカ映画「故郷の愛」(19…

松竹 小津安二郎と五所平之助の入社

後に監督として活躍する小津安二郎と五所平之助が松竹の蒲田撮影所に入社している。 小津は裕福な家庭の子供で、中学生時代にアメリカ映画マニアになって進学に失敗していた。小津は松竹に入るまで日本映画は3本しか見たことがなかったという。当時のインテ…

日活の映画製作 1923年

根岸耕一が所長に就任した日活向島撮影所では、松竹蒲田のシステムを真似て、監督によるユニット制度を採用した。田中栄三組、鈴木謙作組、若山治組、溝口健二組、細山喜代松組、大洞元吾組といったユニットが作られたという。また、脚本部も充実させた。 そ…

日活 鈴木謙作の表現主義的作品

当時の日活向島撮影所で活躍した監督の1人に鈴木謙作の名前が挙げられる。鈴木は、早撮りが普通だった時代に、撮影に時間をかけたことで知られている。その粘りはリアリズムに向けられたが、リアリズムが誇張されて表現主義的とも言われた。1923年には…

日活 現代劇部のトップ、村田実の活躍

日活向島撮影所の現代劇のスタッフは関東大震災の被害で、京都大将軍撮影所へと移った。大将軍では、従来から時代劇を作っていた人々が「第一部」、東京から来た現代劇部は「第二部」となった。この「第二部」のトップとして活躍したのが、大震災の少し前に…

日活 溝口健二、1年目の監督作品

「敗残の唄は悲し」(1923)は、房州の漁村を背景にした作品である。漁村の娘お葉は、村に遊びに来た大学生と恋に落ちる。やがて、大学生の子供を出産したお葉だったが・・・という内容の作品だ。青島順一郎のカメラに負うところが大きいが、場面構成な…

 日活 溝口健二の監督デビュー

この年、後世に名を残す映画監督がデビューをしている。溝口健二である。溝口は1920年に日活向島撮影所に入社し、田中栄三の助監督を努めていた。1922年にそれまでの俳優陣の中心だった女形が大量に離脱し混乱していた中、24歳の若さで監督に昇進…

 日活 女形と訣別し女優を採用

日活は現代劇不振の理由である女形と訣別し、女優の採用を始めていた。1922年の暮れに公開された「京屋襟店」は、女形の役者が出演した日活の作品であるが、この作品を最後に日活の女形俳優は日活を辞めている。 日活は舞台協会から女優を出演させ、岡田…

 関東大震災の日本映画への影響

1923年9月1日、関東大震災が起こる。関東大震災は東京の文化の変化に大きな影響与えた。震災を境にして、伝統的な文化が後退して、漫画、野球、女性の職業、ラジオ放送、大衆小説といった新しい文化が前面に出てくることになる。 関東大震災は映画にも…

 映像技術の発展 1923年

映像技術の面においては、パンクロマティック・フィルムと酢酸セルロースをベースにしたフィルムが開発されている。この新フィルムをもとに、フランスで9.5ミリ(パテ社がパテ・ベビーとして販売。そのために「パテ・ベビー」社も設立)、アメリカでは1…

 レオン・ムーシナックのリズム論

映画批評家・理論家のレオン・ムーシナックは、論考「映画のリズム」(1923)のなかで、リズムをショット内のリズム(内的リズム)とショット連鎖によって生起するリズム(外的リズム)にわけ、外的リズムの重要性を説く「リズム論」を発表した。外的リ…

 朝鮮 初の長編劇映画「春香伝」

日本の統治下にあった朝鮮では、舞台と映画の組み合わせでストーリーを語る連鎖劇が、1919年以降多く作られていたが、「国境」(1923)以後から映画自体でストーリーを語る作品が作られていく。 「月下の誓い」(1923)は3巻の中編で、朝鮮総督…

 中国 シーチュアンとチョンチュウによる映画製作

中国では、1922年にチャン・シーチュアンとチョン・チョンチュウによる映画会社「明星影片公司」が上海に成立し、映画製作を行っている。 1923年には、チョンの主張で、チャン監督、チョン脚本による「孤児救祖記」(1923)が製作されている。善…

 スペインとフィンランドの映画製作 1923年

それまでバルセロナとマドリードが映画製作の中心地だったスペインでは、バレンシアも映画製作の中心に加わってきた。バレンシアでの映画製作の中心は、グランデス・プロドゥクシオネス・シネマトグラフィカス・エスパニョーラス社で、サルスエラ(スペインの…

 スウェーデン 気を吐くスティルレルと米国に渡るシェーストレーム

衰退を続けていたスウェーデンだったが、モーリッツ・スティルレルが「グナー・ヘーデ物語」(1923)を監督して気を吐いている。没落した旧家の最後の相続人が、サーカスの女芸人に恋をして、すべてを売って恋を得ようとするが、失敗。発狂した身をソリ…

 イタリア映画 止まらない衰退 製作本数が3年前の10分の1に

イタリア映画の衰退は止まらなかった。1920年には220本を記録していた製作本数は、1923年には20〜30本と約10分の1にまで減少していた。 1910年年代に大作史劇を監督して活躍したエンリコ・グアッツォーニは、「メッサリーナ」(192…

 イギリス映画草創期からの映画人 セシル・ヘップワース

イギリス映画の草創期から活躍を続けていたセシル・ヘップワースは、自作のリメイクでもある「ライ麦畑からやってくる」(1923)を監督している。主演男優が病気で撮影が遅れるも、ブリティッシュ・フィルム週間に出品するために、未完成の部分があるまま…

 イギリス 不振と若い映画人の芽生え

イギリスの映画製作は不振を続けており、1923年にイギリスで公開された作品のうち、イギリス映画は18%に過ぎなかった。だが、若い才能は徐々に活躍を始めていた。 1922年に独立プロを設立したマイケル・バルコンは、フランス娘とイギリス仕官のメ…

 ソ連 エイゼンシュテイン初の映画製作

前年から本格的に映画に関わり始めていたセルゲイ・エイゼンシュテインは、初の監督作である「グルーモフの日記」(1923)を製作している。といっても、舞台に挿入した映像作品で、短編のコメディだった。 この頃のエイゼンシュテインは、レフ・クレショ…

 ソ連 フィルム不足の中の映画製作

ソ連では、フィルム不足から制作される映画が減少し、1919年の約60本から1923年には約20本に減少していた。 初期ソ連映画の重要人物と言われるウラジミール・ガルジンは、架空の国の皇帝のドラマである「亡霊がヨーロッパをさまよう」(1923…

 その他のドイツ映画 1923年

「吸血鬼ノスフェラトゥ」(1922)を監督したF・W・ムルナウは、ノーベル賞作家であるゲルハルト・ハウプトマン原作の「追放」(1923)を監督している。 アメリカへと活躍の場所を移したルビッチが道を開いた歴史大作の分野では、ペーター・ポール・…

 ドイツ G・W・パプストの監督デビュー

同年に映画化された「地霊」(1923)を監督したのは、後に「パンドラの箱」(1929)を監督することになるG・W・パプストだ。 「宝物」(1923)で監督デビューしたパプストは、舞台から1921年に映画に転向して、俳優として活躍した。その後…

 ドイツ 「街路の映画」とカール・マイヤー

スタジオ主義のドイツ映画は、「室内劇映画」と呼ばれるジャンルの映画を生み出していたが、その延長で街路の世界をドラマに引き入れてリアリズムに近づいた「街路の映画」と呼ばれる映画も製作された。 「蠱惑の街」(1923)は、そんな「街路の映画」の…

 ドイツ映画 光と影の重視「戦く影」

表現主義は、ドイツ映画に光と影を大事にするスタイルを生み出した。ドイツ的な暗さの幻想とサスペンスを感じさせる、アルツール・ロビソン監督の「戦く影」(1923)では、大きな黒い影が動く演技を見せた。 貴族と妻、妻を愛する別の男とその友人に影絵…

 ドイツ映画 表現主義映画のその後

「カリガリ博士」(1920)で火がついた表現主義の流れの作品として、「カリガリ博士」も担当したロベルト・ヴィーネ監督で、ドストエフスキー原作の「罪と罰」(1923)が作られている。 モスクワ芸術座出身のアンドレ・アンドレイエフが立体的構造を…

 オーストリア ジャック・フェデー「面影」

後にフランスを代表する監督の1人となるジャック・フェデーは、オーストリアで「面影」(1923)を監督している。ジュール・ロマンの小説を映画化したロマンティック・コメディである。写真で見た女性に恋をした3人の男性が、実物の女性を見て失望する…